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音楽の本質をめぐって――ピアニスト阪田知樹が語る、音楽の捉え方

記事:春秋社

鼎談のようす。左上から時計回りに訳者の西田・堀、阪田、中川(春秋社編集部)。
鼎談のようす。左上から時計回りに訳者の西田・堀、阪田、中川(春秋社編集部)。

阪田知樹は書評する

堀:阪田さんは最近「コンプリートミュージシャン」になるとおっしゃっています。バッハからガンダムまでの幅広い演奏レパートリーだけでなく、他の仕事にもどんどん手を延ばされるのでしょうか?

阪田:その通りです。フランツ・リストという作曲家が、ピアノを弾き、ドイツのヴァイマルという拠点でオーケストラを指揮し、文筆活動や教育にも力を入れたように、音楽の全活動をコンプリートする、そんな理想です。

堀:最近は楽譜の解説もされていますし、音楽書のレビューもなさっています。まさに読書家=阪田知樹の顔が明らかになりつつあります。

絶対 vs. 標題――大波にゆすられて

堀:そんな阪田さんが、本書で特に興味を惹かれたところはどこですか?

阪田:20世紀の展開ですね。最後の第13章で、まさにリストの得意とした「標題」が流行らなくなって、むしろ「形式」に重みが行くようになった経緯がたどられています。

堀:「客観性」とか「純粋さ」が高く評価された時代でした。

阪田:なかでもベートーヴェン像の変化が興味深いですね。彼は交響曲に詩的なものを採り入れたことでランクの高い音楽を生み出した、なんて評価されましたが、「いやいや、そうじゃない、絶対音楽の方向にいったからこそ偉大なんだ」と、20世紀のはじめに価値観が真逆になった。

堀:345ぺージあたりですね。

阪田:それこそ演奏の分野では、自由に詩的に弾くスタイルから、ノイエ・ザッハリヒカイト(新即物主義)じゃないですけど原典版を重視する流れに変わっていったことは実感していましたが、その変化が、音楽評論や音楽史で先行していたんだよ、というのが整理されていて、理解が深まりました。現代の演奏家にぜひ読んでほしい箇所です。

堀:ありがとうございます。膨大な音源からも学ばれている阪田さんですから、標題性の旗色がすこぶる悪かった時代の感覚も、体に沁み込んでいるのでしょうね。

阪田:はい。シェーンベルクやストラヴィンスキーが、自分の作品が標題の限定を受けてしまうことを避けて、悪くいえばズル賢く立ち回ったことも、みごとに炙り出しています。

堀:「作品の不可侵性を守るには演奏すら必要ない」なんて豪語した人もいました。

西田:ハインリヒ・シェンカー(1868-1935)。私の研究対象だった理論家です。このあたり、阪田さんはいかがですか?

阪田:そんなには惹かれませんでした。楽譜にどれだけ忠実に弾くかよりも、結局はその背後にある“人間”の感情が響いてこそ、芸術だと思っています。

堀:なるほど、そこは最後に深掘りしましょう。「標題からの撤退」は19世紀にもみられました。ブラームスは、作品の源泉としての愛や情熱をだんだん隠すようになってしまう。「恋愛をすっぱ抜かれたアイドルが何も語らなくなる現象に近い」と学生には説明しています。

阪田:(笑)ブラームスの場合は、ニ短調のピアノ協奏曲とかにクララへの思いを込めることもあったでしょうけれど、それを持ち込みたくない、通俗的なものを避けたいという性格も強かったのではないでしょうか。一口に「標題からの撤退」といっても、じつにいろいろな動因があったように思います。

音楽外のイメージ

堀:その点からすると、リストは生涯ずっと標題から離れませんでした。若くして社会変革思想に入れ込んでいたこともあって、その標題音楽は、どれも超越世界にひたすら焦がれるピュアな作風という印象です。

阪田:まずリストっていう人は――なかば都市伝説ですが――共感覚をもっていたと言われています。オーケストラのリハーサルでも「ここは青色のように」とか、おっしゃってたそうなんですよね。なので音楽のイメージに関する世界がものすごく広い。それを膨らませるために、バイロンやユゴーなどの文学をあとから一生懸命に読んだ。父が書店員で根っからの読書エリートだったシューマンと、大きく違うところではないでしょうか。

堀:リストのロ長調には強い黄色を感じます。《ダンテ交響曲》のラストとか、天国がパっと開く感じの。共感覚は19世紀の理論書でも言語化されていて、ロ長調は「けばけばしく強烈な色彩を持つ」とか言われていました。

阪田:天国への門が開く――まさにそういう情景が浮かぶのが彼の音楽だと思います。いま堀さんが挙げてくださったのはオーケストラ曲ですが、《巡礼の年》第2巻ラストの「ダンテを読んで」ではニ長調が神を表しています。再現部で一瞬ゲネラルパウゼ(総休止)になって、そのあと高音に上がっていってニ長調のトレモロで第二主題を再現するところ。同じく「エステ荘の噴水」でも、聖書の言葉を引用するところにニ長調があてられているんです。

堀:ヨハネ福音書の「永遠の命」ですね。

阪田:そうです。そういう文学や文字だけじゃなくて、絵画や彫刻も音楽の源泉にしているのが、リストのとても珍しい特徴だと思います。

堀:多くは20代で書かれたからでしょうか、《巡礼の年》にはそういう「音楽外」のふくよかなイメージで溢れていますよね。

リスト《巡礼の年》第2巻「ダンテを読んで」初版の表紙。楽譜を手にする者に強烈な視覚的なイメージをあたえる。
リスト《巡礼の年》第2巻「ダンテを読んで」初版の表紙。楽譜を手にする者に強烈な視覚的なイメージをあたえる。

タイトルと抽象性

阪田:でも晩年になってくると、タイトルは《忘れられたワルツ》とか《ノクターン》とか、聴き手の考えを誘いだす哲学性を帯びるようになっていくんです。

堀:そういえば阪田さんが自作につけられるワード、まさに「ノクターン」とか「肖像」とかも、聴き手の想像力を刺激しすぎない絶妙なラインを保っていますね? 本書の表紙になっているホイッスラーの絵を思い出します。

阪田:第13章でしたか、あの話の広げ方もじつに面白かったです。カンディンスキーたちが推し進めた抽象画のかなり前に、そういう試みがあったことを本書で初めて知りました。

西田:阪田さんは、もっとニュートラルなタイトルを選ばれることもありますよね。

阪田:はい。たとえば《アルト・サクソフォーンとピアノのためのソナチネ》は、ソナタよりも易しいから「肩肘張らないでね」っていうニュアンスもあります。なにかのフィルターを通さずに音楽に向き合ってほしい時に、そういう言葉を選ぶんだと思います。

西田:ソナチネみたいな「絶対音楽」的タイトルにも作曲家のひそかなメッセージが滲み出ていると考えると、これも「標題的なもの」と言えるのかもしれません。

演奏と翻訳

堀:さっき「楽譜の背後にある人間の感情」を響かせたい、とおっしゃいました。阪田さんのピアノを生で聴いていると、演奏家の主観が透明=ピュアになって消え去って、作曲家の世界がそのまま覗けるように思えることが多いんです。

阪田:へえ。

堀:この本でも繰りかえし書かれているように、ピュアさは絶対音楽に欠かせない資質とみなされてきました。ご自身の「絶対性=ピュアさ」について、思うところはありますか?

阪田:個人的な考えですけれども、演奏するときの優先順位って、阪田知樹よりも作曲家のほうであって、皆さんもそれを聴きに来てると思うんですよね。「自分のことを無にしろ」とまでは言いませんが、自分はあくまで、作曲家の心の内を“翻訳”する存在。今回のご本も、堀さんと西田さんお二人で訳出されてるわけですけども、元々の文章がどうやったら巧く伝わるかっていうのに苦労されましたよね?

堀:改行をたくさん入れたり、面白い註を本文に持ってきたりという工夫のほか、文章の順番を入れ替えることもしょっちゅうです。少しでも読みやすい日本語でお届けしようと思うあまり、自分は空っぽになって内容も忘れちゃったくらいです。

西田:でも汲み取れてない所もいっぱいあると思います。阪田さんも私たちも「インタープレター(演奏家/翻訳者)」としての想像力が問われるところも大きそうですね。

阪田:この本でも引用されているフェルッチョ・ブゾーニ(1866-1924)が、あるインタビューでこんなことを言っています。ベートーヴェンの《悲愴ソナタ》が当時どれほど異常で衝撃的だったかを思うと、情熱をかけてかけすぎることはないと。なにせ2世紀前の環境で生まれた音楽をモダンピアノで再現するのですから。

堀:編曲家のブゾーニらしい発言ですね。《悲愴ソナタ》冒頭のぶあつい和音は、当時の楽器で鳴らすと濁りが凄まじいと、フォルテピアノ奏者ベザイデンホウトも言ってました。

阪田:他にもシューマンの《パピヨン》(作品2)の終わり方で順番に音が消えていくところなんて、当時のピアノでどれくらい表現できたかは不明です。

いま、ピュアな情熱を

堀:令和の時代にリストみたいな情熱を持って生きるのは難しそうです。いまの若者にとって「恋愛・政治・推し活」は、友だちをなくすので口に出せないタブーになっています。どれもリストの専門分野なのに…。

阪田:リストの人間性でぼくが面白いと思うのは、たとえばスキャンダラスな女性関係と、キリスト教の聖職者になっていく情熱と、そういう相反するものが同居している点です。でもそれは真っすぐだったことの結果だと思うんです。人間ってそういう矛盾を抱えているものじゃないですか。いまだって、百人聞いたら百人あると思いますよ。

堀:今はそれを表に出さないのが美徳とされちゃってますよね。でもロマン派の時代は極端さが尊ばれた。

阪田:ですから内省的な音楽を書くリストも、華やかなヴィルトゥオーゾ作品を書くリストも、彼そのものであって、いろんな自分と向き合ったから生まれたんだと思います。通俗性と宗教性の同居や矛盾、ある種の混乱、それこそがいまも愛されている理由ではないでしょうか。

堀:ぼくらも自らの矛盾を生きよう!と。阪田さんのリスト愛が、とくに若い人に伝わるといいなと願っています。今日は長い時間ありがとうございました。

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