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城とは何か? ――中澤克昭『日本城郭史』より

記事:筑摩書房

日本人にとって城とは何か? 先入観を打ち砕く、おどろきの城郭研究。
日本人にとって城とは何か? 先入観を打ち砕く、おどろきの城郭研究。

 「城とは何か?」という問いが、日本の歴史の知られざる一面を描き出すことにつながっている。「城とは何かもわかっていない人に、新たな史実を発見することなどできるのか」と思われるかもしれないし、大げさだと感じる人もいるだろう。しかし、根本的な問題を議論することで、新しい歴史の見方に気がつく場合がある。

城とは何か?

 一般に「お城」と言えば、姫路城や松本城などに代表される天守をもつ近世の城郭がイメージされよう(図1)。

図1 松本城(松本城管理課提供)
図1 松本城(松本城管理課提供)

 近世城郭(城郭建築)は、織田信長・羽柴(豊臣)秀吉の時代に成立した建築様式で、その後、全国各地にその様式の影響をうけた城が築かれた。そうした江戸時代の城郭について調査・研究しようとするとき、どの遺跡を城と呼ぶか、その遺跡が城か否か、といったことで迷ったり、悩んだりすることはほとんどないだろう。

 ところが、筆者が専門とする中世になると、そうはいかない。中世遺跡の場合、これは何の遺跡か、城か否か、といった判断を求められるケースがめずらしくない。例えば、山中で石垣が発見された(図2)。それについて記された古文書も伝承もない場合、その石垣が何の遺構か、判断に困ることがある。山岳寺院の防禦ぼうぎょのために積まれたものか、畑の土留めの石垣か。

図2 長野県松本市四賀地区の虚空蔵山中腹で発見された石垣(筆者撮影)
図2 長野県松本市四賀地区の虚空蔵山中腹で発見された石垣(筆者撮影)

 あるいは、発掘調査によって中世の堀と土塁に囲まれた方形の区画が検出された。それは何の遺跡なのか。「武士の館だ」と判断するのは早計である。寺院も堀や土塁を構築することはあったので、出土する遺物が少ない場合、館か寺か、判断に困る場合がある。仏具や茶道具などの遺物が出土し、寺院の遺構だと考えられたとしても、中世には寺院が城郭化することもあった。文献史料によって、その寺院がある時期、城郭化していたことが判明した場合、その遺構は、「○○寺跡」と称するべきだろうか、それとも「○○城跡」と称するべきだろうか。

 このような謎解きに挑まなければならないのが、中世史研究の面白さであり、魅力でもあるのだが、こうした不可解な遺跡と向き合い、その遺跡の性格を説明したり、遺跡名を付けたりすることになる研究者たちは、しばしば悩むのである。そもそも、「城とは何か?」。

見解の相違

 城を専門的に調査・研究する学者の間には、「城」の定義について、見解の相違がある。

 城郭考古学者の千田嘉博氏は、「砦・城・館といったとき、それらを他の遺跡と区分する最大の要件は、軍事性の保有」だとして、「館」と「屋敷」の違いについても、「どのように立派な建築物を備えようが、軍事性、とりわけそのなかの防御機能(堀や土塁など)をもたなければ屋敷であり、館とはいえない」とした[千田2000]。「砦・城・館」を一括して城郭研究の対象としており、それらは「軍事性」によって他の遺跡と区分できるという。

 そうした見方に対し、近畿地方を中心に全国各地の城郭研究を牽引している考古学者の中井均氏は、「城」と「館」とを分けて考えている。「城郭」は「軍事的防御施設」であり、「館とは異なる原理で築かれるもの」だという。筆者もこうした「城」と「館」の分け方に賛成で、中井氏もこれが「現時点での共通認識になっている」としているが[中井2020]、別の見解を表明している専門家もいる。

 東日本における中世武士の本拠や交通などの研究を専門とする歴史学者の齋藤慎一氏は、城郭研究が研究対象としてきた城とは、軍事的防御施設としてのそれであるが、果たしてそのイメージのみで中世の城を語ることができるのか、と問う。「まず軍事」という見方で中世の城や館をとらえきることはできない、とする齋藤氏は、「城」と「館」を分けずに「城館」と一括し、「『城』には中心にある支配拠点としての性格と居住空間の性格が含まれ」ているので、「城」は「必ずしも軍事的な場ではない」。日常的な、平和な空間も「城」と称された、と論じている[齋藤20062021ab]。

 このように、城郭研究をリードしてきた錚々たる研究者たちの、「城とは何か?」という問いに対する答えは一様ではない。その要因はいろいろとあるだろうが、この議論を建設的なものにするためには、まず研究の方法や立場から考えてみることが必要だと思う。

城郭研究の方法

 城郭の研究には、いくつもの方法がある。過去の人間に関する事象を研究する学問は歴史学と総称されるが、遺物・遺跡などモノを資料として人類の過去を研究する考古学も、広義の歴史学に含まれることがある。考古学と区別して歴史学と称する場合、主に文字史料(文献)を用いて研究する歴史学を「文献史学」と称することもある。

 さらに、城郭の研究では、各地にのこる城の遺構、特に防御性を高めたり敵を迎撃しやすくしたりするために工夫された構造(「縄張り」と称する)を現地踏査によって図化することがおこなわれてきた(その図を「縄張り図」という)。1980年、村田修三氏によって縄張り図を資料として戦国史研究をおこなうことが提唱され[村田1980]、発掘調査だけでなく地表にのこる城跡の調査も重要であることが認知されるようになった。狭い意味で「城郭史学」とか「城郭史研究」という場合、この縄張り研究のことを指す場合もある。

 80年代には、中世遺跡の発掘調査も増加の一途をたどり、それまで原始・古代にくらべると低調だった中世考古学の研究も活況を呈しはじめた。城跡の発掘調査の事例も増え続けるなかで、一つの論争がおこった。「軍事施設であることに独自性のある城郭を扱う場合、まずその軍事面にせまる縄張り研究」を重視するべきだと説く村田氏[村田1985b]に対して、考古学者の橋口定志氏が、「軍事施設であることに独自性を狭めてよいのであろうか」と批判の声をあげたのである[橋口1986]。「城とは何か?」という論争は、ここに始まっていたと言えるかもしれない。軍事性を重視する城郭研究者と、「地域における」「支配拠点」である城館には軍事以外にも政治や経済、その他さまざまな面があるはずだと考える考古学者、それぞれの主張はよくわかるのだが、論争としてはどこかかみ合っていないと感じるのは筆者だけだろうか。

名付けの難しさ

 城跡の調査・研究の方法をめぐって議論する場合にも、城の定義や城と他の遺跡とを分ける基準のようなものが示されなければ、生産的な議論にはならない。やはり、「城とは何か?」と問い返すことが必要なのである。

 例えば、縄張り研究者も考古学者も、「城」や「館」といった語を用いて遺構を説明する。しかし、調査されている遺構・遺跡のうち、古文書などの文献史料にその名を残しているものは、ごく一部に過ぎないから、厳密に言えば、その遺構が構築され機能していた当時、何と称されていたかわからないことが多い。山の上にあって堀や土塁をもつ遺構は「○○城」、平地にあって方形(矩形)に堀・土塁がめぐる遺構については「○○館」というように称されることが多い。しかし、それぞれの定義や基準、根拠となる史料などが示されることは稀である。多くの場合、研究者が、「城」とはこうしたものだ、「館」とはこのような存在だ、といった現在の常識的な考えに基づいて名付けたり、分類したりしているのではないだろうか。村田氏は、「館」と「城」の区別が難しい場合があることを認めた上で、「館の典型例と城の典型例を決めて区別する。学問とはそういうものだ」と割り切ろうとしたが[村田1987]、ある事例を「典型」とする理由・基準は何かが問われることにかわりはない。

 また、文献史料に、「居館」という語は見当たらず、「城館」という語もほとんど見えない。現在の研究者が「居館」や「城館」と称している遺構は、構築され機能していたとき、「居館」や「城館」と称されたことはないのであり、「居館」や「城館」の定義も、研究者にゆだねられている。しかし、これも至難の業だと言えよう。

 もちろん、考古学的な調査によってはじめてあきらかになる実態があるし、遺構を無視して「城とは何か?」を考えることは難しい。しかし、城や館とされる遺構=モノについて議論する場合も、城や館をどのような存在だと考えるのか、というコトについて自覚的・意識的であるべきだろう。

研究の立場と城郭観

 中世の城郭を研究しようとする者の立場は、大きくつぎのように分けることができるだろう。

 現在の私たちが城郭だと考えるものを研究すること。
 中世の人々が城郭だと考えていたものを研究すること。

 この両者は、ある程度重なるかもしれないが、ぴったり一致しているわけではない。

 筆者は、城郭はどのような存在だと考えるかという思考の様式、城郭とはこうしたモノだという見方、とらえ方を、「城郭観」と称している。立場は、現代の城郭観に基づく立場であって、誤解をおそれずに言えば立場は、私たちが現在、「こうしたモノが城だ」と認識しているモノに近いモノを中世に探し求め、それについて研究しているのである。「そんなアナクロニズム(時代錯誤)が研究の場で通用するわけがない」と思われるかもしれないが、根拠や判断基準を示さずに、「防御機能(堀や土塁など)をもたなければ屋敷であり、館とはいえない」、あるいは、「城か寺かという問題なら、遺構的に判断していずれかで呼べばいい」[村田1984]とするのは、「城や館ならこんな防御施設があるはずだ」、「城とはこうしたモノだ」という前提があって判断していると言わざるをえない。それは、「現在の私たちが城郭だと思えるものを研究する」立場だということになろう。そうした立場をつらぬけば、中世の遺跡の不可解な実態から一定の距離を保つことが可能かもしれないし、遺跡の名付けにもそれほど悩まなくなるかもしれない。

 立場は、中世の城郭観をあきらかにしようとする立場、ということになる。中世の史料によって、中世の人々が「城」や「城郭」というコトバをどのように使っていたかということを探り、関連する史料から、それらのコトバにどのような意味や作用があり、それによってどのような判断がなされたか、といったことを探る。その上で、中世の人々が「城」・「城郭」と認識し、「城」・「城郭」と称したものについて、その実態をあきらかにする、という立場である。城郭をモノとしてとらえるだけでなく、城郭というモノが各時代の人々にとってどのような存在であったかというコトから探る立場だと言ってもよいだろう。

歴史学の基本

 中世の人々が何を「城」・「城郭」と認識していたのか、できる限り同時代の史料を探ってあきらかにする。これは、文献史学の方法の基本だと言ってよい。

 歴史研究の史料として、古文書などに記されている文字は大きな比重を占める。それゆえ、歴史学では史料の読み解き方を訓練する際、史料の中のコトバを注意深く検討して、その史料を書き記した作成者および同時代にそれを読んだ読者が理解したのと同一の解釈に達することをめざす。この「コトバの史的検証」が、文献史料を利用して歴史を研究する際の第一の前提であり、文献史学の基本中の基本なのである[網野ほか19881989]。

 まず、問題となるコトバ、本書の場合、「城」や「城郭」が、各時代において、どのような文脈で、どのような意味で用いられていたかを探り、それを用いていた各時代の人々と同じ解釈に到達しようとする。この「コトバの史的検証」という基本的な作業が、城郭の研究においてじゅうぶんにおこなわれてきただろうか。

 史料は、文献だけではない。絵画についても、制作された時期や目的、描かれているモノについて把握して、その絵を描いた絵師の意図、その絵を見た人々の理解と同一の解釈に達することをめざす。そうすれば、それを史料として、その時代の城郭について探ることも可能である。これまでの城郭研究において絵画は、挿し絵程度にとりあげられて紹介されることはあっても、それを史料として読み解いて、その時代の城郭について探った研究は少ない。しかし、絵画も重要な史料になる。

 14世紀に制作された『法然上人絵伝』という絵巻物に、鎌倉時代の城郭を描いた場面がある(図3)。

図3  『法然上人絵伝』に描かれた日吉八王子社の城郭( 『続日本の絵巻(2) 法然上人絵伝 中』66-67頁、中央公論社)
図3  『法然上人絵伝』に描かれた日吉八王子社の城郭( 『続日本の絵巻(2) 法然上人絵伝 中』66-67頁、中央公論社)

 絵巻物の多くは、詞書と絵のハイブリッドで、この場面の詞書によれば、比叡山延暦寺の「堂衆」という僧の集団が別の「衆徒」と対立し、比叡山の鎮守社のひとつである、日吉ひえ八王子社に城郭を構えて抗戦している様子を描いている。背後に見える懸造かけづくりの建物は、八王子社の社殿で、そこへ至る坂道に、枝の先端をとがらせた材木(「逆茂木」という)と組み合わせた楯(「垣楯」という)で防御施設を構築し、画面右手から押し寄せる武士たちを迎え撃っている。

 この絵をみて、「これは城とは言えない。単なるバリケードだ」とするのは、先ほど大別した立場、すなわち現代の城郭観による判断ということになろう。この絵の詞書には「山門の堂衆等」、「日吉八王子の社壇を城郭として悪行を企み」と書かれており、はっきりこれを「城郭」と称している。当時の人々が「城郭」と称しているモノが描かれているのに、それを「城郭とは言えない」とするのでは、いったい何をあきらかにしようとしているのか、よくわからなくなる。しかし、この場面を、鎌倉時代の人々が「城郭」だと考えていたモノを描いた画像として読み解く立場であれば、この時代の城郭観を伝える貴重な史料ということになろう。

 こうした史料によって中世の城郭観を探り、中世の城郭観と現在の城郭観との違いを知ることは、中世の城郭を研究しようとしている私たち自身の立場を客観的に考えることにつながる。それは、「城とは何か?」について考える土台になるだろう。

城郭観の歴史へ

 本書では、日本の古代から近世までの城郭観を探ることで、「城とは何か?」という問いに、筆者なりの答えを出すことをめざしたい。日本の城郭の歴史を、城郭というモノの発達史としてとらえるのではなく、まず各時代の人々が城郭をどのように認識していたか、どのような存在だと思っていたか、というコトを探り、コトとモノの関係史として、城郭の歴史を描く。古代、中世、近世、それぞれの時代で城郭の存在形態は異なり、それぞれの時代に生きた人々の城郭のとらえ方、思考の様式があったはずである。まず、それを探ってみたい。

 史料の残り方による限界から、難しい時代・地域もあるだろう。そもそも、古代から近世に至る1000年を、新書1冊で描き出そうというのは、我ながら無謀な試みではないかと思う。城郭の研究は膨大な数にのぼり、研究の個別細分化はとどまるところを知らない。一つの城だけで、ぶ厚い研究書がまとめられることもある。専門的な『日本城郭史』であれば、時代や地域、さらには各城を専門家が分担して執筆するべきだろう。そうすれば、詳細で正確な説明が期待できる。

 しかし本書は、あえて私一人で、古代から近世まで見通してみたい。新書1冊という限られた紙幅であるから、個々の城郭について詳しく説明することはできないだろう。重要な情報の見落としや誤認もあるだろう。しかし、前後の時代との関係や大きな流れを見通すには、新書はちょうどよいかもしれない。

 各時代の城郭観を探ることで、「城とは何か?」という根本的な問いについて考えてみる。

 そこから、どのような歴史がみえてくるのか、無謀かもしれない挑戦を始めてみよう。

序章・参考文献

網野善彦・笠松宏至・勝俣鎮夫・佐藤進一編『ことばの文化史』中世1〜4、平凡社、1988・89年
齋藤慎一『中世武士の城』吉川弘文館、2006年
齋藤慎一『中世東国の信仰と城館』高志書院、2021年a
齋藤慎一「城館構造の地域性と変遷」中井均先生退職記念論集刊行会編『城郭研究と考古学』サンライズ出版、2021年b
千田嘉博『織豊系城郭の形成』東京大学出版会、2000年
中井 均『中世城館の実像』高志書院、2020年
橋口定志「1985年の動向(中・近世)」『考古学ジャーナル』263、1986年
村田修三「城跡調査と戦国史研究」『日本史研究』211、1980年
村田修三「中世の城館」永原慶二ほか編『講座・日本技術の社会史(土木)』6、日本評論社、1984年
村田修三「縄張り把握と発掘、協力へ――城郭研究の現状」『読売新聞』8月16日夕刊、1985年
村田修三編『図説中世城郭事典』1〜3、新人物往来社、1987年

中澤克昭『日本城郭史』(ちくま新書)
中澤克昭『日本城郭史』(ちくま新書)

『日本城郭史』目次

序 章 城とは何か?
第一章 古代の城郭
第二章 古代から中世へ1――東北の戦乱と王朝の城郭観
第三章 古代から中世へ2――中世城郭の出現
第四章 鎌倉時代の城郭
第五章 南北朝・室町時代の城郭
第六章 戦国時代の城郭
第七章 中世から近世へ
終 章 城郭史研究のフロンティア

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