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言語学の広く深い世界へ 入門/認知/社会 紀伊國屋書店員さんおすすめの本

記事:じんぶん堂企画室

言語に魅せられて

 主に大学図書館向け洋書カタログ作成という日本の書店でもレアな仕事をしてきて、個人的偏愛のあった言語学分野の本をご紹介します。そもそも紀伊國屋書店に入社したきっかけが、店舗のイメージというより紀伊國屋書店出版部が当時出していた言語学書に関心を持ったことでした。もっとも、大学で言語学が専門だったわけではなく、ソシュールの『一般言語学講義』を原書と邦訳で読み比べてみるという授業に出て、言語の謎にその言語そのもので迫る困難を述べる先生の語り口に魅せられて、後から思うと言語学よりも言語思想に恋していたのですが。

 ついでながら、『一般言語学講義』原書刊行100周年の2016年、言語学者の町田健氏(名古屋大名誉教授)による新訳が研究社から出ていたのはご存じでしたか? 数々の言語学入門書でもおなじみの町田先生ですが、「訳者はしがき」では、「古代ギリシアに始まる言語研究の歴史において、人間の言語の本質を解明することを目的とした概説書の中で、間違いなく最も優れたもの」と言い切っておられて、訳文もすっきり入ってきやすく、再読するしかありません。 

 「言語論的転回」が言われていた20世紀は、文学や哲学、心理学や神経科学など、さまざまな分野で言語が基盤にあるという意識が共有されて、言語学は学問全体の中でもひときわ注目を集めていました。ところが、書店の棚では近年元気がないというか、お隣になることが多い哲学・思想に比べると、外側に届く本が減っているかもしれません。

 しかし、もっとも身近な日本語や英語のあれこれから、教育、社会、心理、メディア、法律、政治、科学まで、森羅万象に言語がかかわっていて、人文・社会・自然科学の多くの分野と実はつながっている言語学の世界はまだまだ奥深く、語り尽せない魅力をたたえていると思うのです。

新書の言語学入門 これがオススメ

 新書の分量で言語学を幅広くカバーするのは難しいのですが、2019年の収穫として、加藤重弘『言語学講義―その起源と未来』(ちくま新書)を挙げます。新しい切り口がどんどん出てきて、研究者の間でも少し専門が違うと話が通じにくくなっているという言語学の「全体像を俯瞰(ふかん)」しつつ、種々の変化の相にも触れるという困難な課題に挑んだ一冊ですが、かなり成功しています。

 理論言語学と社会言語学をともに見つめてきた著者(北海道大学教授)の広く深い視座から、言語学という学問が歴史の中で保持してきたアイデンティティーと拡大していく外延図(「複雑系言語学」まで)を描いていきます。淡々とスケッチしているように見えて、だんだんと地図が埋まってくると、言語学がぐんと大きく見えてくる、小さくても読み応えのある本です。

思考と意味―「認知」系の言語学

 言語学といえば、もっとも著名な言語学者チョムスキー(90歳を超えて健在!)の「生成文法」や、それと対比されることの多い近年の潮流「認知言語学」を思い浮かべる人も多いと思います。両者はその言語観が異なるとよく言われ、前者は「文法」(特に統語論)、後者は「意味」(というより文法も意味と一如ととらえる)に重点があるものの、言語を人間の心の中にあるものと捉える、広い意味での「認知」系の言語学という点では共通しています。

 ここでは、どちらの学派からも尊敬を集めてきた稀有(けう)な言語学者レイ・ジャッケンドフの待望の邦訳『思考と意味の取扱いガイド』(岩波書店)を挙げましょう。哲学や心理学ともかかわる認知科学の広範な議論をリードしてきた当代一流の知性が、はじめて一般読者向けに、まるでくだけたコラムのような調子(ユーモラスなイラストも多数!)で、心と言語の難題について長年かけてたどり着いた認識をやさしく語り直す好著です。

 その結論は、私たちの多くの直観に反するものですが、脳科学の還元的な視点でもない、哲学の「日常的な視点」でもない、境界的な言語分析が浮かび上がらせる(言語がほぼ私たちから隠れている思考の「取っ手」のように働く)「認知的な視点」が説得力を持って提示されています。

 実は言語における「意味」とは「聖杯」のようなものであって、科学の対象とするための苦闘とその不満がこの数十年の言語研究を動かしてきた観がありますが、ジャッケンドフは生成文法とも認知言語学とも対話しながら、独自の「概念意味論」(「概念構造こそが意味なのだ」)を展開しています。言語学的により詳しい説明は、先に邦訳が出た大著『言語の基盤―脳・意味・文法・進化』(岩波書店)をご覧ください(筆者は入社数年で言語学の洋書目録を任された時、原書Foundations of Languageで勉強しましたが、今読み返しても21世紀の言語学はここから始まったという感慨がよみがえる名著です)。

 なお、『思考と意味の取扱いガイド』は、たとえば著者(クラリネットの演奏家でもある)の造詣(ぞうけい)が深い音楽を含む「芸術系の人文学」の意味を考える章も素晴らしく、人文書を愛する方には絶対オススメできます。

酒場の会話の妙とは―「社会」系の言語学

 社会系の言語学からも、面白い新著を取り上げておきましょう。中田梓音『スナックの言語学―距離感の調節』(三元社)です。近年あの微妙な飲食店業態「スナック」が女性にも人気らしく、「スナ女」なるものまでいるそうですが、本書はスナック好きが高じて研究テーマにまでしてしまった著者の博士論文の書籍化です。

 酒場のコミュニケーションなんて言語学になるのかと思うと、これがどうして立派な学術書で、飲食営業でも独特の立ち位置(そのゆえんも詳しい)にあるスナックのママたちの「接客言語ストラテジー」を、言語学と社会学の間で練り上げられてきた「会話分析」の手法と、対人関係の調整にかかわる「ポライトネス理論」を通して、分析しています。

 ここに詳しく書き起こされたスナックの会話は、ちょっと見にはごくゆるいコミュニケーションの連鎖です。しかし、そこに秘密があるというか、著者の綿密な会話分析(と事後聞き取り調査)によると、実はママたちは客の「フェイス」(ポライトネス理論では、人間の対人関係上の基本的欲求としてのメンツ、面目を表す)を侵害しないように気遣いつつ、さりげなく丁寧体から普通体に移行したり、遊戯的/攻撃的ユーモアを使いわけたり、異性関係などの自己情報開示をコントロールするといった複雑な言語行為を通して、客にまた来てもらえる家族的な関係を育みながら適度な距離感を保っているのがわかります。

 著者がスナックを愛しているだけでなく、その場を成り立たせている会話の妙(「痒(かゆ)いところを掻(か)いてくれるような心地よさ」)を、印象論でなくきちんとした学術の言葉で分析できているのが、今までの酒場本と一線を画するところです。さらに著者自ら「仮設スナック」を営業し、「接客者」として分析結果を実地検証する探究心にもひきこまれます。本書を片手に酒場へ繰り出してみると、会話が弾むかもしれません。

まだまだ語り尽きない魅力

 ひとくちに言語学といっても、方向性がまるでバラバラな本たちを取り上げてきましたが、どの本も、わたしたちが日常的に言語でやっている実はすごいことを、その同じ言語で説明することがいかに難しいかということ、そこに挑戦していく「言語学」の魅力を語ってくれているのではないでしょうか。「人文書」の元々は本流でありつつ、はみ出してしまう「言語学」の場所を気にかけつつ、これからも新たな本との出会いに期待します。

 最後に、言語学というより言語思想の本ですが、近年ひときわ強い感銘を受けた本についても、ひとこと。2018年についに邦訳されたダニエル・ヘラー=ローゼン『エコラリアス―言語の忘却について』(みすず書房)です。前回の「紀伊國屋じんぶん大賞2019」で、言語の本としては珍しくベストテン入りの、第9位でした。以下は、選考時の筆者の推薦コメントです。

 「これだけの多言語的な時空間が、一人の知性によって紡がれた驚異にうち震える、美しき断章集。「喃語(なんご)の極み」から「バベル」まで、これでもかと続く喪失の運命。それでも転生し続ける言語の谺(こだま)に耳をすませば、死者たちの声が蘇(よみがえ)るようだ。翻訳されたこと自体が奇跡とわかる「訳者あとがき」も必読。」

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