モノが語る遊廓の真実 『聞書き 遊廓成駒屋』より
記事:筑摩書房
記事:筑摩書房
私が「成駒屋」(名古屋の旧中村遊廓)の解体現場に行ったとき(昭和52年)、すでに玄関まわりはほとんど片づけられてしまっていたので、入手できたのはわずかに看板と行灯だけであった。
その看板は、ガラスに勘亭流(かんていりゅう)(歌舞伎の看板や相撲の番付などに使う書体)の赤文字で「成駒屋」と記されたものである。もちろん、ガラスは、木枠で囲われている。
大きさは、一尺五寸(約45センチ)と一間(約180センチ)。本来は、玄関表の鴨居の上にはめられていた。
行灯は、玄関の両わきの壁にとりつけられていたものと、看板を照らすべく軒にさげられていたものである。
玄関わきの行灯は、ガラス製で、なかに電球をはめこむ形式。軒にさげる行灯も、ありていにいえば、ガラス箱のなかに電球を入れる形式であるが、一方のガラスがはずれている。看板を照らすためであったらしい。
もっとも、他の店では、イルミネーションの看板もあったようである。現存する建物のなかにも、豆電球をはめこむ穴がぐるりとあいたトタン板(旧式なネオンボード)を掲げたものもある。往時をしのばせてくれるものの、今は昔、無残な光景が点在しているのである。
さて、この行灯や看板に迎えられて(実際は、仲居の呼びこみに引かれて、というべきか)、客は玄関のたたきに立った、と想定できる。
そして、本来であれば、たたき正面の壁に、額に入った写真がずらっとならんでいたはずである(私が行ったときは、すでに玄関の壁はとりこわされ、写真類はすべて破棄されていた)。それは、娼妓の全身、あるいは顔だけを撮ったもので、看板写真といわれた。もちろん、当時のことであるから、それらはモノクロ写真である。
客は、その写真によって娼妓の器量を見定める。そして、気にいった娼妓を指名するのがシステムであった。とはいっても、なかにはだいぶ修正されている写真や若い時代の写真もあったようで、部屋で娼妓と対面してびっくり、ということなどもままあったようではある。
むろん、遊廓で看板写真を掲げる習慣は、写真技術が発達したのちに定着したもので、だいたい全国的にみると、昭和10年以降のことである。
それ以前は、客は、張店(はりみせ)をのぞくことで娼妓を選んだ。張店とは、時代劇などでもしばしば再現されるように、格子ごしに娼妓たちが客待ちをした部屋であり、その制度である。
張店は、客にとっては好みの娼妓を自分の目で選べることから歓迎されたが、そこで客待ちをする娼妓たちは、さながら動物園のおりのなかの動物のようであった。
大正5(1916)年、折から廃娼運動の高まるなかで、たとえば、警視庁はいちはやく張店を禁止。娼妓の人権侵害を取締まる姿勢をみせた。
それを機に、まず東京、次いで大阪の遊廓から看板写真に切り換えがはじまった。そして、それが導火線となり、徐々に全国の都市へと波及していったのである。
名古屋では、中村に遊廓が移った当初(大正末期)にはまだ張店が存在したが、昭和5、6年ごろから、看板写真を掲げる娼家がふえだした。看板写真ばかりでなく、アルバム形式の写真帳を使うところもでてきた、という。
「成駒屋」の場合、張店は玄関のたたきの左手にあった。表から格子ごしにのぞける部屋が一二畳、それに六畳の次の間がついている。そこが物置きになっていた。一二畳の部屋にはつくりつけの行李棚(こうりだな)が、次の間にはそれに続くかたちで小物用の戸棚があった。
行李棚には、娼妓の源氏名が記されたいくつかの行李(着物、帯、長襦袢などが入っていた)が残されたままだった。娼妓たちが、自分の部屋に収納しきれない衣裳類を運びこんだものなのか。あるいは、タンスが完備した遊廓であれば、この衣裳行李は必要でなかったのかもしれない。
なお、解体屋の田辺某によれば、そこには客用の浴衣や丹前の入った行李もあったが、どれもまだ十分に着用できるものだったため、近隣の旅館からいっせいに人がやって来て持ちだしてしまったのだ、という。
小物用の戸棚は、ほとんどが空であった。ただ、一部にかなり大量の医療器具と薬品類が残っていた。戸をあけたとたん、薬品の異臭が鼻をつき、思わず顔をそむけたほどである。
ほかに元の張店にあったのは、長火鉢(二台)、火鉢にかける大きな鉄瓶、鏡台(姿見)、それに茶道具(盆・急須・湯吞・茶筒)などである。
その部屋は、娼妓たちの休憩場所であった感もする。道具類が、そのくつろぎのようすを示している。たぶん、煙草や雑誌類もあったであろうし、あるいは、楼主によってはラジオぐらいは備えていたかもしれない。
「成駒屋」が看板写真を掲げだしたのは戦前(昭和20年以前)のことには違いないだろう。事実、解体時の現場をみると、かつての張店の前(表)には、軒よりも高く丈がのびた松の植えこみがあり、それがあることで客が表から格子ごしになかをのぞきこむ状況にはない。少なくとも、その部屋は張店としての機能を失って久しく、それゆえに、物置き兼娼妓たちの休憩部屋とみることが妥当であろう、と思わせるのである。