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二重に私であること 〈仏教3.0〉の思いがけない展開(下)

『〈仏教3.0〉を哲学する バージョンⅡ』(春秋社)

永井哲学との出会い

 私は10歳の頃のある夜、星の瞬く夜空を見上げた途端に、驚くべき発見をした。それを勝手に「私の星空体験」と呼んでいる。「この星空を今このように実際に眺めているのは宇宙広しといえども、この僕しかいない! それはなぜなのか? そもそも、それがなぜわかるのだろうか?」もちろん、その時に、こんな言語表現が浮かんできたわけではない。いろいろな形に成形できる大きな疑問の塊のようなもの(のちになって禅に「疑団」という表現があるのを知った)がドカンと降ってきたという方が正確だろう。

 この出来事には強烈な体感も伴っていて、その時は自転車に乗っていたのだが、思わずバランスを失って倒れそうになったことを覚えている。それから20年近く経ってから、大学院を中退して禅僧になったのも、元をたどればこのときの驚愕がきっかけになっていたのではないかと自分では思っている。

 僧侶になってから偶然手に取った永井均さんの著作『〈子ども〉のための哲学』(講談社現代新書)はそんな私が抱えていた疑問のもつれを解きほぐし、感情的な驚愕を言葉による理路に定着させてくれるものだった。こういう問題を哲学している人が地上にいてくれたんだと無性に嬉しくなり、それ以来、私は永井哲学のファンの一人になった。

 そういう個人的な思い入れのある人であったから、当の永井さん本人がわれわれの前に現れ、あろうことか〈仏教3.0〉と永井哲学を付き合わせる作業を共同でやってくれることになったときの驚きを想像していただけるだろうか。そのおかげで、〈仏教3.0〉が思いがけない方向にさらに展開することになった。

 この共同作業を始めて驚いたことが三つあった。まず、永井さん自身が坐禅や瞑想実践を長年続けておられたということ。

 二つ目は私や山下良道さんが修行した曹洞宗の禅道場安泰寺第六世住職であった内山興正老師の思索を永井さんが哲学的に高く評価していたということ(この鼎談がきっかけで復刊された内山興正老師の『進みと安らい――自己の世界』(サンガ)の帯文で、永井さんは「本書(とりわけ第四章)の内山興正の画期的な見地がもし仏教のそれに反しているなら、間違っている(あるいは思慮が足りない)のは仏教の側です」と書いている)。

 三つ目は、〈仏教3.0〉が強調する主体の交代といったことは彼にとっては既に当たり前で自明のことであり、当然の前提だと思っていたということ。これを知った時には、〈仏教3.0〉と永井さんが出会ったのはごく自然の成り行きだったと思わざるを得なかった。

自己曼画と永井哲学

 〈仏教3.0〉を哲学する鼎談の第2回目において、永井さんは内山老師の考案した六つのイラスト図からなる「自己曼画(漫画の漫ではなく曼荼羅の曼を使う内山老師独自の造語)」を材料にして、内山老師の「自己ぎりの自己」という表現の深い意味を永井哲学の立場から説明しようとした。

 これは、内山老師の孫弟子にあたる私にとって目から鱗が落ちるような内容で、昔から見慣れていた自己曼画がまったく新しい意味を持ってよみがえってきた気がした。〈仏教3.0〉が永井哲学を介して、そのルーツの一つである内山老師と新たな形でつながったのであった。

 特に興味深かったのは、個々人が「屁一発でも貸し借り、やり取りできない」形で完全に断絶しているところが描かれている第一図はリアルな私秘性(他人の感じていることは感じられないこと)の図であり、第五図と第六図は内容を持たない存在そのものを示すアクチュアルな独在性(ここに私という他の者とは全く違う、その眼から実際に世界が見えてしまうようなやつがなぜだか一人だけ理由なく存在していること)の図であるという区別の話だった。

第一図

第五図 第六図

 内山老師はこの私秘性と独在性の重要な違いに慧眼にもうすうす気づいていたのだが、時にそれを混同していたと永井さんは指摘した。

 永井哲学では「タテ問題(たとえば、物質である脳がなぜ意識を生み出せるのか、といった問題)」と「ヨコ問題(たとえば、たくさんあるとされる意識の中で、一つだけ例外的に現実に意識できる意識があるのはなぜか、といった問題)」と言われている議論がある。

 この観点からすると、無我(人称の問題)とか無常(時制の問題)といった仏教の教義はこれまでのところタテ問題的にしか説かれておらず、ヨコ問題がまったく見過ごされたかたちで理解されてきたのではないかということが見えてくる。

 私を含めて誰にでも共通に当てはまる一般原則が平板に説明されているだけで、宗教が本来切り開いていたはずの突出した独在性の次元(たとえば「天上天下唯我独尊」はそういう意味だったのではないか)がすっかり見失われているではないか。タテ問題は世界がすでに開闢した後の話だが、ヨコ問題は世界が開闢する原点に関わっているという意味で、まさに宗教的な問題のはずだ。

 私と良道さんがタテ問題的に議論していた〈仏教3.0〉は、永井さんとのやりとりによって一挙にヨコ問題的な世界へと開かれていったのだった。それは自分の原点ともいえる「星空体験」に回帰することでもあった。瞑想の主体、生と死、他者、慈悲といった重要なコンセプトがタテ問題からヨコ問題へと捉えなおされようとしているライブの記録として、『〈仏教3.0〉を哲学する』と『〈仏教3.0〉を哲学する バージョンⅡ』(いずれも春秋社刊)を読んでいただけたら幸いである。〈仏教3.0〉の展開はさらにこれからも続いていく。

(永井哲学については多くの本があるが『世界の独在論的存在構造 哲学探究2』春秋社刊を参照されたい)

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