1. じんぶん堂TOP
  2. 文化・芸術
  3. 【全文紹介】「幽霊はアレルギー症状を引き起こさない」 岡田利規さんが能に惹かれる理由

【全文紹介】「幽霊はアレルギー症状を引き起こさない」 岡田利規さんが能に惹かれる理由

記事:白水社

岡田利規『未練の幽霊と怪物 挫波/敦賀』(白水社刊)が、国立競技場駅A2出口に出没。都営地下鉄大江戸線は同書で舞台とされる六本木駅〜国立競技場駅〜都庁前駅をつなぐ。
岡田利規『未練の幽霊と怪物 挫波/敦賀』(白水社刊)が、国立競技場駅A2出口に出没。都営地下鉄大江戸線は同書で舞台とされる六本木駅〜国立競技場駅〜都庁前駅をつなぐ。

岡田利規[photo © Kikuko Usuyama]
岡田利規[photo © Kikuko Usuyama]

能はアレルゲンフリーの演劇だから

 世の中には、演劇アレルギーの人、というのがいる。実のところ、かなりたくさんいる。もしかしたら、花粉症患者と同じくらいの数、いるのではなかろうか。

 演劇アレルギーの人は、演劇の演技の噓くささや、わざとらしさに、敏感に反応する。そうしたものに触れると違和感でムズムズしてきて、耐えられなくなってしまうのである。

 わたしは演劇を作る人間だけれども、演劇アレルギーの人たちのそうした心情は、とてもよくわかる。わたしもどちらかというと演劇アレルギーだからだ。

岡田利規『未練の幽霊と怪物 挫波/敦賀』(白水社)P.54─55 本文書体は解ミン宙で、新作能の各作品タイトルまわりの書体は(東京の地下鉄の駅名標を鑑みて)UD新ゴPro。ハシラとノンブルはUD新丸ゴPro。
岡田利規『未練の幽霊と怪物 挫波/敦賀』(白水社)P.54─55 本文書体は解ミン宙で、新作能の各作品タイトルまわりの書体は(東京の地下鉄の駅名標を鑑みて)UD新ゴPro。ハシラとノンブルはUD新丸ゴPro。

 たとえば、舞台上の役者が役柄の人物になりきっているつもりで熱演しているさまというのは、たいがいの場合、わたしにとって、見ていて辛い。それがなぜ辛いのかと言うと、わたしに言わせれば、役者と役の人物は言うまでもなく別人なのだから、役の人物になりきることなどそもそも不可能で、それなのにあたかもそれが可能であるとばかりにやっているから、見るに耐えないのだ。これが映像における演技であれば、話はまた別なのだが、舞台での演技においてそれをやるのは、どうしようもなくイタい。

 役者と役の人物とが一致し得ない、ということ。これは演劇において、とても本質的な大前提だ。ではどうやって演劇において、役の人物を成立させたらよいのか。それでも演劇が可能であるのだとしたらそれはなぜなのか。そうしたことを、この本質的な大前提を見据えた上で考えるべきだろうし、演劇を実践する際にも、この本質を無視するべきではないだろう。そうでなければ、演劇アレルギーの症状を引き起こすような演劇をやってしまう、ということになる。

 わたしは、演劇アレルギーの人は、演劇の本質を見据えることをせずにそこから目をそらすようにして行われている演劇に対して、アレルギーを起こしていると思うのだ。だからそれはもっともな反応であると思う。

 演劇アレルギーであるにもかかわらず、わたしはどうしたわけか演劇をやっていて、それは奇妙なことだと我ながら思いはするのだが、そうは言っても事実やってきていて、このように相成ったいきさつについては書くと長くなってしまうから、ここではそれは説明しないが、とにかくそういうわけなので、わたしは、自分が演劇アレルギーの人でも見ることができるような演劇を作っていると思う。小麦アレルギーの人でも食べられるよう米粉を用いるなどしてグルテンフリーのパンやクッキーをつくっている人たちがいるけれども、自分もそれと似たようなことをできているのではないかと思っている。

岡田利規『未練の幽霊と怪物 挫波/敦賀』(白水社)P.92─93  建築家が「地上に降り立った巨大なUFOのような、ザハ・ハディド・アーキテクツの、あの、圧倒的造形が、あそこに実現されているはずだった」ことへの未練を語る場面から。
岡田利規『未練の幽霊と怪物 挫波/敦賀』(白水社)P.92─93  建築家が「地上に降り立った巨大なUFOのような、ザハ・ハディド・アーキテクツの、あの、圧倒的造形が、あそこに実現されているはずだった」ことへの未練を語る場面から。

 さて、能の話である。わたしが能が好きで、能のことをすごいと思う理由は、能が持つ演劇としての形式が、ユニークで大胆で、そしてきわめて本質的だと思うからだ。演劇として本質的でないごまかしみたいなことを、能は一切していない。潔くて、トンガッている。だから能が好きだ。

 能は、役者と役の人物とがぴったり一致するなんていう考え方を、全然持っていない。能の演者は、役になろうとしていない。彼らは役になるのではなく、役を呼び寄せている。能の演者は役の人物そのものではない。彼らは、役の人物を映すためのスクリーンのようなものだと、わたしは思っている。

 スクリーンという言葉を例に出したついでに、映画を見るときのことを考えてみよう。映画館で映画を見るとき、観客は、スクリーンに映る映像を見ている。これは、映像の映されているスクリーンを見ているのだ、とも言える。それとほぼ同じことで、能を見る者は、演者に映る役の人物を見ている。これは、役の人物が映されている演者のさまを見ているのだ、とも言える。能はそのようにして演劇を成立させていて、ここにはひとつも無理がない。欺瞞【ぎまん】がなく、イタさもない。ムズムズしてきてしまうような違和感が生じる要因がない。非本質的なことをしていないから、能には演劇アレルギーを引き起こす要因、すなわちアレルゲンがない。能はアレルゲンフリーの演劇だと、わたしは思っている。それだから、わたしは能に惹【ひ】かれている。

岡田利規『未練の幽霊と怪物 挫波/敦賀』(白水社)目次より 表題作のほか、夢幻能と間狂言に今日的なキャラクター(六本木駅に現れる金融トレーダーの幽霊、都庁前駅に現れるフェミニズムの幽霊、『ハムレット』のせりふを覚える舞台女優)を登場させて資本主義に飲み込まれている現代日本の姿を描いた『NŌ THEATER』、演劇論(「幽霊はアレルギー症状を引き起こさない」、「能は世界を刷新する」)を併録。
岡田利規『未練の幽霊と怪物 挫波/敦賀』(白水社)目次より 表題作のほか、夢幻能と間狂言に今日的なキャラクター(六本木駅に現れる金融トレーダーの幽霊、都庁前駅に現れるフェミニズムの幽霊、『ハムレット』のせりふを覚える舞台女優)を登場させて資本主義に飲み込まれている現代日本の姿を描いた『NŌ THEATER』、演劇論(「幽霊はアレルギー症状を引き起こさない」、「能は世界を刷新する」)を併録。

 夢幻能【むげんのう】においては、シテ方【かた】が演じるのは幽霊である。能によく幽霊が出てくるということ、役になるのではなく役を呼び寄せるという仕方で演劇を成立させる能が幽霊を多く扱うものであることは、わたしを深く納得させる。能における幽霊の扱い方と、能の演劇を成立させる仕方は、実にうまい具合に結びついている。内容と形式とが、見事に嚙【か】み合っている。すごいと思う。

 幽霊は、その場に実在していないが、存在はしている。その意味で幽霊と映像は似ている。役というのも、演劇においてはそのように、幽霊や映像のように現れるべきものだとわたしは思う。そこに実在しているものとして役が扱われている演劇は、見ていてムズムズしてくる。くしゃみが出そうになる。そんな演劇はどこか無理を来【きた】していて、アレルギー症状を引き起こし得るものとなる。実在してはいないが存在している幽霊のようなものとして、役が扱われている演劇は、アレルギーを引き起こさない。信じるに値する演劇となる。

 能とは別の仕方で能と拮抗できるほど本質的な、完全にアレルゲンフリーな演劇の形式を、わたしも編み出してみたいものだと思う。演劇アレルギーの人は、能を見ればいいと思う。見てほしいと思う。

【岡田利規『未練の幽霊と怪物 挫波/敦賀』(白水社)から「幽霊はアレルギー症状を引き起こさない」】

【KAAT神奈川芸術劇場プロデュース「未練の幽霊と怪物」の告知動画(2020年6月3日に初日を迎えるはずだった舞台「未練の幽霊と怪物」は、4月15日に今年の全公演中止を発表。改めて上演の機会を調整することとなりました。また、「敦賀」の読みは〈もんじゅ〉→〈つるが〉に変更となりました)】

ページトップに戻る

じんぶん堂は、「人文書」の魅力を伝える
出版社と朝日新聞社の共同プロジェクトです。
「じんぶん堂」とは 加盟社一覧へ