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「東京、コロナ禍。」初沢亜利さんインタビュー イラク・北朝鮮・沖縄を撮った写真家が、育った街に向き合う理由

記事:じんぶん堂企画室

文:吉野太一郎 写真:初沢亜利
文:吉野太一郎 写真:初沢亜利

「東京2020」を撮るはずが…

――元々はコロナではなく、東京の街を撮るつもりだったそうですね。

 新型コロナが大問題になる前から、2020年は東京の景色がいろんな形で動く1年になると思っていました。当然、オリンピックイヤーになるはずだったし、そこからもう何年か撮って、1冊にまとめようかな、と考えていました。自分の中で東京というものが見えてくるには時間のかかる問題だと思ったんで、しっかり腰を落ち着けて、数年がかりの作業になると予想していました。

――イラクや北朝鮮、沖縄の写真集を出している初沢さんが、東京をテーマに選んだのはなぜですか?

 上智大学の写真サークル時代と、卒業して1年ぐらいは、東京の街をずっと撮って、作品も発表したし、東京新聞の都内版にも連載を持っていました。当時はただ、撮るのがうれしくて、とにかく身の回りを撮っていたので、東京を撮ろうと思ってたわけでもないんです。

 その後、カメラマンとして独り立ちして、2003年に29歳でイラクを訪れ、北朝鮮に行き、東北の被災地に行き、沖縄にも行きました。北朝鮮や沖縄は、存在自体が日本の戦後処理の問題を非常に強く投げかけている土地ですよね。そこへ行って、日本の本土の人々に見せることを強く意識して撮っていました。

 いろんな地域を撮ってきた中で、自分の拠点であり、育った街である東京を、いつか撮らなきゃいけないという気持ちがずっとありました。2013年から約1年半、沖縄に移住して写真を撮ったときに出会った写真家の石川竜一さんと、地元紙『琉球新報』で対談したとき、「初沢さん、次はぜひ、東京を撮ったものを見たいです。もっと言えば、東京を撮らないで、どこかまた違う土地を撮ったとしても、僕はあなたのことを信用しません」と言われたんです。

 僕は東北の被災地や北朝鮮や沖縄を、東京人として、見て消費する側の一員だという前提で巡っているわけですから、政治、経済、マスメディアの中枢である東京のまっただ中に帰ったとき、あなたはそこで何を撮るんですか? という本質的な問いかけを、ずっと忘れずにいましたね。その後また2016~18年まで、もう1回北朝鮮を撮るんですが、やっぱり東京を撮らないといけない、と、どこかでひっかかっていました。

――初沢さんは6歳から東京で暮らしています。見慣れた景色に向き合う作業は、難しかったんじゃないでしょうか?

 そう、だからやりたくなかった。撮らなくても、いつも歩いているわけですから。目の前には赤坂や銀座や新宿の空間が広がっていて、それは僕にとって一切、刺激的でない。そこから何かを探すというのは、いちばん難しい。けど、そこが試されるところですよね。

 やっぱり、東京人は東京を撮った方がいいと思うんですよね。ずっと死ぬまで撮り続けるくらいの覚悟で。森山大道、荒木経惟、渡辺克巳(故人)といった戦前生まれの写真家はそれをやってきた。僕は30歳以上離れていますけど、その間の世代で今、東京を撮り続けている人を僕は知らない。

 高度成長期の東京は、すごいカオスで活気があって、絵になる時代だったということなのかもしれません。渡辺克巳がこだわって撮り続けた新宿で、今の時代の情緒や人間の躍動を街中で垣間見ることは難しい。洗練されたということなのかもしれないけれども、そういう今の東京の風景は、なかなか撮るのは大変です。

 その中で2020年は、光景としても人の流れとしても、変化がいろいろありそうな予感はしました。オリンピックが来ることで、人々がどれぐらい浮足立つのか、あるいはそんなに変わらないのか。外国人もいっそう来るはずでしたから。そういう中で撮っておくべき1年だと思って撮り始めたら、コロナに入っていったんですよね。

「コロナ禍」を最初に感じたのは横浜だった

――撮り始めたのはいつですか?

 カメラを持って撮り始めたのは1月からだけど、写真集に収録されているのは2月からですね。ただ、「コロナ禍」というものを最初に目の当たりにしたのは横浜の中華街だったんです。

――というと?

 大型クルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス」が横浜港に寄港して、船内で集団感染が広がり、収拾がつかなくなって、陰性の乗客を下船させ始めたのが2月19日。これを撮りに行くために横浜に行って、中華街へ食事に行ったら、人が全然いなかったんですよ。今思えば緊急事態宣言下の渋谷や銀座みたいな。武漢の新型肺炎のニュースが流れ、横浜にダイヤモンド・プリンセスが停泊していて、中国に対する漠然としたイメージの悪さが、横浜中華街にいきなり降りかかった。これが最初に「コロナ禍だな」と思った瞬間ですね。

 「ダイヤモンド・プリンセス」から降りてくる人たちは、バスとタクシーに乗って、羽田空港か新横浜駅に行って、公共交通機関で全国に帰っちゃった。やがて次々とその人たちに陽性反応が出る。多分、最初に全国の人が不安に思ったニュースですよね。どんどん人が出てくるのを見て、さすがに怖いなと僕も思いました。その1人目がこの女性で、いきなり歩いて出てきたので、世界中のメディアが「陽性かもしれない」という不安を持ちながら取り巻いた。その様子がおかしくてこの写真を撮りました。

――3月になるとさらに事態が進んで、いよいよコロナが全国に拡散し始めました。

 3月20日からの3連休で、一気に人が移動して拡散したんじゃないかと言われました。これは3月29日の日曜日、立ち入り禁止になった上野公園で雪が降った様子です。東京でみぞれでない雪はなかなか降りません。本来なら花見でにぎわっていたはずの場所なのに。

――東京といえば雑踏が不可欠な要素ですが、それがなくなったという変化は大きかったのでは?

 いや、そんなに目新しい感じもしなかった。僕が東京人だからだと思うんですけど、人がいない東京の風景って、正月に毎年見てるから。地方出身の人は故郷に帰って、がらがらの東京を見ていないことが多いけど、東京にいると、毎年正月は「年中このくらい静かだといいのになあ」と思う季節。だから光景そのものに刺激は受けなかった。むしろその中で出会った人、向き合った人の方が、いろいろと受けた刺激は大きかったかもしれません。

 もっともっと人がいない場所、あらゆる街の人がいない風景を撮っていって、1冊の写真集を作る人がいてもおかしくないですよね。でも僕は人に寄っていっちゃう。5秒前にも5秒後にもない絶妙な一瞬を、人の流れの中に自分が入り込んでいるから撮れるのがスナップ写真の楽しさで、そこは写真を始めた頃からずっと大事にしてきた。だからこの写真集を見て「こんなに人がたくさん出歩いてたの?」と振り返って思うことがあるかもしれない。

――ステイホーム、不要不急の外出自粛というムードの中を出歩いてみようと思ったのは、やはり写真家としての性ですか?

 当然。東北の被災地や、北朝鮮に行くのと一緒。むしろすごく自然でしたよ。これだけ歴史的な東京の状況を、カメラマンは外に出て記録するものだろうと思っていた。逆になんでみんな、撮らなかったのかということの方が不思議です。街を歩いていて感染することはないわけだし、電車に乗っても誰もいない。被写体にインタビューしない限り、2m以上離れてるわけだし。すごいリスクを背負って、ものすごい社会の反対の中で撮ったという感覚もないんですよね。

もうコロナにしか見えない

――6歳から東京に住んでいる初沢さんが、印象に残った写真は?

 表紙に選んだのは子どもの頃に遊んでいた、家の近所にある公園の遊具。少なくとも40年前からあったのに、改めて見たら、コロナウィルスに見えた。いったんそう見えたら、なんでコロナにしか見えなくなっちゃうんだろう。世の中の偏見の中に自分もいたということを確認しますよね。そういうおかしさがあるんです。

 これは撮っていてつらかったなあ。営業自粛要請を受けて休業して、それを苦に自殺したのではないかと報じられたとんかつ屋さん。花束がたくさんあって、人が大勢いて、報道陣もたくさんいて、という現場を想像していたんですけど、行ってみたら報道陣は1人もいなかった。

 実は周辺の居酒屋はみんな昼から営業していて、どこも満員だったんですよ。とんかつ店の主人も、開けておけば人は入っただろうし、そんなに批判もされなかったと思います。僕も含めて不真面目な人と、真面目に店を閉めた人。コロナを巡る行動の幅は大変広かったですね。

 東京ディズニーランドの営業再開日。大きく引き延ばして見ると、並んでいる人たちの距離感や視線の方向がばらばらで、ものすごく面白い写真なんだけど、新聞社のカメラマンはみんな1階にいました。わかりやすさが重視される新聞写真は、どこかの家族やカップルの集団にピントを合わせて、背景の建物をぼかすという撮り方になるでしょうね。

――自粛要請に抵抗して深夜まで営業しているバーに警官が入ってくる写真も、衝撃的でした。「抵抗」というテーマも込められているのでしょうか。

 なぜそんなに、何を根拠に自粛しているのか、もう少し冷静に考えてみてもいいんじゃないかとは漠然と思っていましたよ。今だってここ数日の方が、緊急事態宣言の期間中よりもっと感染者が多いと毎日ニュースでやっているのに、みんな外に出て飲みまくってる。みんな自粛って言ったら自粛になり、解除って言ったらワーッと出ていっちゃう。同調圧力と群集心理ですよね。そこを冷静に見ていた感じはあります。

――写真集はほぼ時系列で並んでいるので、だんだん人が多くなって、ムードが明るくなっていく感じがします。

 最後の構成はすごく悩みました。元に戻り始めた感じが見えて、明るく華やかに、気持ちいいまま終わることもできたんだけど、完全に収束に向かっているわけではない、第2波が来るかもしれないと言いながら編集をしていた時期だったからかもしれません。

 だから最後に、「中国人お断り」の貼り紙を出している中華料理店の写真を挟んでみた。きっと1月ぐらいに張られたはずのものが、まだ張られているんでしょう。もやもやとざらつきを残したまま終わらせたかったんです。

半年間を追体験できる記録に

――コロナで東京は大きく変わったと思いますか?

 それが全然しないんです。東日本大震災と福島第一原発事故で、これで世の中180度変わるように論じてる人が多かったけど、原発事故でエネルギー政策の根幹が変わったわけでもない。コロナもそうですよ。テレワークしてたら家族のことを理解できてよかった、というぐらいじゃないですか。

――街は全然人がいないし、オリンピックはやれるかどうか分からない。表面的には大きな変化が起きているけど、本質的には変わらないということですか?

 そうですね、局所的に変化は見て取れるけど、いずれ回復して元に戻っていくんじゃないでしょうか。人間の消費に対する欲望はそう変化しないし、人は非常に忘れやすいものだから。政府やマスコミが何かにつけて国民の不安をあおる方向に過剰に持っていきたがるのは北朝鮮報道でもそうだったし、不安は増幅するけど、そこに乗りたくはない。人は「変わる話」が好きなんで、面白くない見方かもしれないけど。

――このタイミングで出版するのは迷うこともあったのではないかという気もします。

 出版を決めたのが6月中旬でした。緊急事態宣言も終わって、第2波も来るかもしれないと編集者と話しながら、それでも7月末には落ち着くんじゃないかと、期待と希望を持っていた時期です。また感染者数が増加傾向ですが、本屋だけは閉じないでと願っています。

初沢亜利さん(撮影・吉野太一郎)
初沢亜利さん(撮影・吉野太一郎)

――まだ撮り続けるテーマとしても終わっていないわけですよね。

 そうですね。引き続き撮っていこうと思っています。まだコロナは続いているし、漠然とコロナ禍が何だったのか語れるような時期でもない。なんとなくもやもやとしているところをさまよっている。僕はそれを、カメラを持って、いろんなことを考えながら街を歩き続けるわけですけど。

――いつか「あの頃はこんなことがあった」という貴重な記録となるのでしょうか。

 いろんな視点があると思います。地方の人にとって東京は、今や完全に危険地帯というイメージ。ニュースで見ていた東京の景色とは別に、こういう細かい日常がちゃんと存在していたんだなと感じてもらえればいい。そうなると、北朝鮮を撮っているのと、ある種、同じ撮り方だったのかもしれないですね。

 また、東京に住んでいる人も、ほぼ会社と自宅の往復で、特定の駅周辺しか見ていないだろうから、東京の半年をこの写真を通じて追体験できるんじゃないか。海外でもイタリア人であれアメリカ人であれ、それぞれの写真家が自分の街を撮っているはず。そことの比較においても、いずれ重要な意味を持ってくるのではないでしょうか。

※東京・赤坂のバー「山崎文庫」(港区赤坂6-13-6 赤坂キャステール1階 電話03-5544-9727)で、『東京。コロナ禍』の写真展を開催しています。日曜を除く午後4時から。9月26日まで。

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