『広辞苑』の編者・新村出はチャーミング!? 孫による伝記『広辞苑はなぜ生まれたか』
記事:世界思想社
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新村出は『広辞苑』の編者として知られていますが、どんな人で何をしたかはほとんど知られていません。『広辞苑』には「新村出」の項目はありませんが、一般に、言語学者・国語学者で南蛮吉利支丹(きりしたん)研究にも新たな境地をひらいたとされています。
むろんそれが間違いではありませんが、生きた期間も1876(明治9)年から1967(昭和42)年と長く、そのなかで幅広く、多くのことを為してきました。孫の私が書いた初めての伝記『広辞苑はなぜ生まれたか―新村出の生きた軌跡』では、その生涯をトータルに明らかにしています。
ここでは、その中から、見過ごされてきた二つの側面について紹介します。
その一つは、生粋の図書館人だったことです。
京都大学では、28年間在籍中、言語学講座担当と兼任で、足かけ26年間図書館長を務めています。早期に日本図書館協会の会員になり、全国図書館大会等で社会教育の場である公共図書館の人たちを対象に講演をいくどもおこない、文章も多く書いています。近代日本の図書館をかたちづくる上で功績大だった、佐野友三郎山口県立図書館長、今井貫一大阪府立図書館長らとも親好があったのです。
もう一つは、高等学校を中心とした国語教育に多大な関与をしていることです。
明治の末から亡くなる年まで、多くの国語教科書、副読本、教師用指導書が新村出の編著で刊行されています。『普通教育国語綴字法』『新撰女子国文教授資料』『新選現代国語』など、30点ほどにおよび、なかには10巻シリーズのものも少なくありません。国語の試験問題を持ち帰った中学生(旧制)の甥(おい)に、的確に解説し、アドバイスをしたというエピソードもあります。
実は、『広辞苑』の前身である『辞苑』(1935年博文館刊)は、新村出がつくりたいと思って始まったものではありません。小出版社主の一般家庭向きの国語辞典を出したいとの要請に、最初は「そのようなものには興味をもたない」と言って断っていたのです。
食い下がる出版人にたいして応諾したのは、狭い範囲の言語学・国語学研究者ではなく、上記二つの側面を持っていたからだと考えられるのです。『辞苑』の刊行、そしてその改訂作業が難航しているうちに終戦を迎え、岩波書店に引き継がれる経緯は、ドラマチックでもあります。
妻を愛し、子どもと孫を愛し、親類を愛し、人間を愛し、自然を愛し、言葉を愛した新村出。喜寿の歳から高峰秀子の熱烈なファンとなり、松山善三・高峰秀子宅を訪れたりもしました。
謹厳でありながら洒脱(しゃだつ)でユーモアをもったその生きざまを面白く味わっていただければと思っています。三浦しをんさんの推薦のことば「偉大にしてチャーミング!」は我が意を得たりです。
※『中日新聞』(2017年9月22日夕刊)より、再構成して掲載