「空気」が読めず、警察沙汰に!? ウスビ・サコ学長が困惑した日本の生活コード
記事:世界思想社
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日本で生活をし始め、ある程度まで日本語が理解できたと思うようになったころ、かえって多くの誤解が生じ始めました。日本語独特の言葉のニュアンスのために迷惑をかけたり、戸惑わせたりすることが多くなったのです。
例えば、やっと覚えた日本語を日本の知人や友人たちに披露するつもりで、よく電話をかけ、そのたびに相手の都合を聞いて、「よかったら会いませんか?」と誘っていました。よく耳にしたのは「ちょっと」とか「少し」といった回答です。なるほどちょっとの時間や少しの時間なら会えるのかと私は考え、ではいつ会えるのかと続けると、おそらく緊急のことだと思われたのでしょう、ほんの少しだけ会ってくれた知人や友人もいました。
だいぶ時間が経ってから、この「ちょっと」「少し」が表と裏の二重の意味をもっていることがわかってきました。とはいえ当時、私と話をしていた日本の友人たちは、この「ちょっと」「少し」が実は私には通じていないとは微塵も考えなかったのでしょうか? 同じように「結構です」にもだいぶ振り回されました。もちろんいまでは「結構です」がその場の雰囲気と空気によって否定的な意味になったり肯定的な意味になったりすることは理解しています。
イントネーションや音の強弱で言葉のニュアンスが変化する言語は他にもあるでしょう。また、リップサービスに類するものはどの文化にも存在します。とはいえ、日本語の場合、そうした音の区別がなかったり、特に大げさに言うべき内容でもないことが言外の意味をもっていたりします。
「近くに来たらいつでも立ち寄って」と普通の声色で言われたとしたら、それは何か別のことを大げさに言っているのだと思い込むべきなのでしょうか。日本語を覚えたての私は、日本にはリップサービスというものはなく、本当に自分が誘われているのだと信じ込みました。いつでも遊びにおいでと言ってくれた知人の自宅を訪ねたとき、「本当に来ちゃった!?」と驚いた顔はいまでも忘れられません。
京都での生活も長くなり、近隣との関係も良好になってくると、何事もうまくできていると思うようになります。そうしたなかで、私を驚かした出来事が二つほどありました。
私の自宅の向かいにはおじいさんが住んでいて、彼は私の知人や友人、ボランティアの方々が私の家の前にとめた自転車を、私たちがパーティーやミーティングをしているあいだに並べ直していました。彼らが帰るときにはいつも自転車がきれいに整理されていたので、誰がこのようなことをやってくれているのか、ずっとわからないままでした。
ある日、夜遅い時間に家のチャイムが鳴ったのでドアを開けたところ、このおじいさんから「自転車が路上にあふれて、通過する車が自分の敷地に入り込むので、明日から自宅の塀を延長することにした」と言い渡されました。当然、相手の敷地内のことなので口出しできることではありませんが、自転車が迷惑だったのなら早く言ってくれたらよかったのにと思いました。その後、私が来訪者の自転車を整理するよう改めたところ、彼のほうから延長した塀の一部を取り壊してくれました。
この自宅でのパーティーやボランティア活動のミーティングはもう一つの「事件」の原因になりました。ボランティア組織の事務局を設けていた私の家には、大勢の方々が連日訪ねてきて、ときには打ち上げをすることもありました。また、ゼミの学生たちもよく私の自宅に来て、パーティーをしたり、一緒にサッカーの試合を観戦したりしていました。
それが近所にどう見られていたかを、当時の私はまったく意識していませんでした。むしろ、何か催しをした翌日になると決まって私に「賑やかでよろしいね」「元気でよろしいね」などと声をかけてくれる人が登場することに気をよくしていたほどです。
そうこうしているうち、サッカーの試合を観戦したある晩、警察官が訪ねてきて「近所から苦情が出ているので静かにしてください」と言われたのです。思わず警察の方に「近所の方々はいつも私を褒めてくれているので苦情などあるはずはありません」と伝えたのですが、この出来事は私にとって非常にショックでした。
これは京都だから起こったことなのでしょうか。概して日本の言葉に隠されている裏の意味まで読み取るのは至難の技です。日本に住む外国人は何度もこのようなことを経験しているに違いありません。しかし私の場合は、近所とのやり取りのなかで、日本あるいは京都に住むコツを学びました。
「空気を読む」「はっきり意見を言わない」「みんなとは反対の意志を悟られまいとする」など、日本では美徳と思われがちな行為は、むしろ人間関係を冷淡にしているように思います。そして日本に住む多くの外国人はこうした生活コードを共有していないにもかかわらず、多くの方はそれが理解されているものと考えて行動しがちなようです。
もともと「空気を読む」というのは、相手に対する配慮だったはずです。もし相手がこの配慮の生活コードを共有しておらず、そしてもし相手に対してなおも配慮をしたいと思ってくださるなら、「空気を読む」とは違う新しい配慮のかたちを創造することが必要なのではないでしょうか。