「私の物語」から明らかになるもう一つの日本史 尹雄大『異聞風土記 1975-2017』より
記事:晶文社
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島の朝に吹く海風は実に爽やかで気分がいい。心地よさにひかれるままに散歩していて見つけたのは、住宅街にあるカフェで、毎朝濃くて美味しいコーヒーを飲みつつ、エーリッヒ・ケストナーの『ケストナーの終戦日記』を読むのがしばらくの習慣となった。ナチに執筆禁止、出版物の焚書措置を受けたケストナーが第三帝国の陥落にいたる日々を綴っている。もう一冊携えてきた清沢洌(きよし)『暗黒日記』もそうだが、この手の日記は当然ながら常に渋い不機嫌な顔つきなので、宮古島の空気にまるで合わない。
けれども、こんなにも爽やかな空気が望めたであろう七〇年前、沖縄本島では捨て石にされた部隊の出血を強いる消耗戦が行われていた。
教習所の敷地内にある寮のリビングにはテレビが置いてある。福岡の自宅にはテレビがなく、久しぶりに見た東京のキー局が放送する番組では関西弁を話すタレントがたくさん登場しており、加えて「日本の良さを発見」といったテーマも多かった。
取り上げられる美点は現在ではなく、伝統だとか過去を持ち上げてのことで、そうなると、つい思い出すのは毎日の学科教習で見るビデオに登場する車のことだ。かつてジャパン・アズ・ナンバーワンと言われた一九八〇年代から九〇年初頭の、安価で壊れにくく燃費の良い車が映像には多く登場する。今やダウンサイジングはヨーロッパが先行しており、燃費の良さはもはや日本車に限らない。
古き良きと言いたがる人たちの、振り返りのポイントはわりとこの辺りの時代だと見当をつけている。それにしても、あの時代のドラマやアニメを見ると、小物や背景ひとつとってもただならぬ多幸感と躁状態にも似たはしゃぎようと物憂さないまぜの感じがあるなと思う。
番組では芸人がのべつ幕なしに関西弁でしゃべり、何やら騒いでいる。彼らが話す度に、腹話術師の唇の動きと発話をずらしてみせるような感覚を覚え、おもしろさではなく「おもしろいことを言おうとしている人たち」といった隔たりを感じて見ている自分がいた。
言葉も風土もまるで違うここ宮古島でテレビを見ると、以前は笑っていたはずの彼らの身振りが異国めいたものに感じられてしまってならない。そうしてぼんやりと眺めていると行き当たるのは、私たちがこうしたテレビをはじめ情報媒体を通じて「日本」として観念しているものは、東京から関西までの間の出来事を日本っぽさとして確認しあっているだけではないか、といったことだ。
チャンネルを沖縄のローカル番組のニュースに変える。特集として、子供たちが琉球舞踊を平和記念堂で奉納する模様が数分くらい取り上げられていた。踊っていた少女のひとりが「平和の大切さを伝えていきたい」と話していた。沖縄でも戦争について関心を持たない世代が増えていると聞く。七〇年も経てばそうなって当然ではあるだろう。「平和の大切さ」が持つ重みはどれほどのものであり、その言葉の手触りはどういうものだろうかと思案する。
キー局の情報バラエティと称する番組では、白昼堂々と「反日か否か」を嬉々として話題にするタレントたちがいる。にわかに政治めいた政治について語るようになった芸人がいる。このような時節であれば、子供たちが口にする「平和の大切さ」にはリアリティがなく、したがって「言わされている」とか偏向教育の結果だとか、大の大人が言いかねない世相ではある。
沖縄戦では県民六〇万のうち約一二万が犠牲になった。五人にひとりという途方もない数の死。身近ではなくとも名前を聞けば、「ああ、あの人ね」と言えるくらいの間柄の人たちが忽然と姿を消したのだと想像される。
敵に見つかるからと泣き止まない我が子を親が絞め殺す。強いられて集団で死ぬ。撃たれ刺され爆ぜて燃え、追い立てられ、スパイと言われ、飢えて膿んで臓物脳漿を泥地に撒き散らして死んだ。耳をつんざく砲弾の吹き荒れる嵐の中に響く絶叫と声にならない叫びと痛みが染み込んだ記憶はまだ乾ききってはいない。PTSDという語もまだ行き渡っていなかった時代。思い返すとズブズブと泥に沈んでいくような、身がもがれるような痛みは決して鬱散することがないままであれば、復興とはじくじくと痛む体で生きてきたことに他ならないだろう。
痛苦の記憶を紡いでいく。過去を知る。それが新たな戦争を防ぐ手立てになるかもしれない。だが時が経つほどに証言をすること、そして、それを聞くことのどちらも難しくなってくる。
語り手にとってもすっかり滑らかになった悲惨な話もあるからだ。ストーリーがうまく語られ出すと、やがて語られるべき緊迫感が磨滅していく。どれだけ切実な体験であっても繰り返し語る間に、語ってしまえるストーリーになってしまう。
聞く側も「繰り返してはならない」といった過去の客観的な出来事として捉えてしまえば、自身の内にある暴力性と照らし合わせて聞くことがない。だからこそ耳目をそばだてる必要がある。それは平和が大事だと「言わされている」という指摘が的を射た批判になりえると思っている感性とは別のところで琢磨しなくてはいけない。
語りの原点は身を震わせるほか語りようのない体験をしたということだった。地を叩き、涙にくれるほか表しようがない。身悶えし、かき口説くほか示せないことがこの世にはある。
沖縄のメディアには「辺野古」「阻止」といった見出しが踊り、普通に「戦世(いくさゆ)」という表現が出てくる。沖縄では当たり前でも、ヤマトから来た人間には、ここには均(なら)すことのできない記憶があるのだと強く感じさせられる。感じざるをえない。そう思いながらも、ある日気がついた。宮古島の人の口から「ウチナー」あるいは「オキナワ」という語を耳にしたことがほとんどないことに。
「内地から来たのか?」と言いはするものの、そこでの内地はウチナーに対比したヤマトではなく、ただヤマトからミャークへ来たのか? を表している、そんなニュアンスを感じる。沖縄という括りに入りきらないものとしての宮古島があるといった構えを感じる。
本土から沖縄に移り住んだ複数の人の話によれば、本島では那覇が中心であり北部、南部への軽侮の念があり、そして本島全体としては、宮古島をはじめとした「離島」に対する差別意識があるのだそうだ。琉球王府は島々を征服した。また中国の冊封(さくほう)を受けていた王府は、小中華として支配領域に華夷の秩序を敷いた。それはそのまま薩摩の支配下において、宮古島や八重山に過酷な税を強いる政策として反映された。「離島」に住む人には長らく培われた生活実感として差別を感じるところがあるのだろう。
教習所の待合室に置かれたテレビは、沖縄ローカルのニュースを流しており、番組内では内地と違って辺野古の問題をきちんと取り上げていた。それを見ている宮古島の人たちは特にリアクションしていない、少しばかり冷ややかな視線であることに気づいた。沖縄のヤマトに対するわだかまりと一括りにできない、宮古島に溜まる、まだ乾ききっていない歴史の滞りをふと感じた。
路上教習で来間島(くりまじま)に架けられた橋を渡った。眼下には美しい海が広がっており、橋を行き来するだけで気分が上がる。指導員が不意に「あそこがそうだ」と指差した一帯は、自衛隊のミサイル部隊が新たに配備される予定地だ。牧草地で草のほかには目ぼしいものはなにもない。宮古島では反対の声もあるが、本島ほどの忌避感はなさそうな印象を受けた。
ミサイルと草のただ生える土地の広がりは妙な取り合わせに見えた。こんなにも穏やかな宮古島にもかつてアメリカ軍の爆撃が行われた。ただひたすら碧い海と空を見ていると、戦争やミサイルがありえないような絵空事に感じる。
でも、ただ阿呆のように見ていても飽きないひたすらな美しさは、千万言費やすよりも絵空事のほうが現実なのだと感じさせる。爆撃は起きたし、ミサイルは配備されるかもしれない。けれども、それは何をしようとも人間どもの小賢しさにしかならないような、虚しく思える圧倒的な碧さ。テレビではフィリピン沖の台風が間もなく沖縄をかすめ、そのあとは梅雨入りだと伝えていた。
(尹雄大『異聞風土記 1975-2017』より抜粋)