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「記者失格」柳澤秀夫さんインタビュー メディア激変の時代、それでも記者の仕事は面白い

柳澤秀夫さん(写真はいずれも『記者失格』より、柳澤さん提供)

柳澤さんが選ぶ、記者の仕事のお手本

  • 『大統領の陰謀〔新版〕』(ボブ・ウッドワード&カール バーンスタイン、ハヤカワ・ノンフィクション文庫)
  • 『サイゴンのいちばん長い日』(近藤紘一、文春文庫)
  • 『サイゴンから来た妻と娘』(近藤紘一、文春文庫)
  • 『ライカでグッドバイ: カメラマン沢田教一が撃たれた日』(青木冨貴子、ちくま文庫)

――それぞれ、選んだ理由を教えていただけますか?

 まず、記者の仕事は面白いんだっていうことを実感してもらうのがいちばん大切な気がするんです。私自身、まさかメディアを目指すなんて夢にも考えていなかったけど、きっかけになった最初の本が、今に至る原点になっている気がするんですよ。それが『大統領の陰謀』なんですよね。

 ワシントン・ポストの2人の記者が、ニクソン大統領を辞任に追い込んでいくプロセスを描いた本は、ワクワクするし、当時は匿名だった最重要情報源の「ディープスロート」って一体誰なんだろうっていう謎や、取材の世界で、どう情報をとって記事にしていくのかというプロセスが、純粋に物語として面白かった。

 あとは昔、産経新聞におられた近藤紘一さん。ベトナム戦争末期にサイゴンに駐在していて、その頃に新聞に連載していた『サイゴンの一番長い日』と『サイゴンから来た妻と娘』。特にサイゴン陥落目前の南ベトナムで、人々がどうもがいているのかを、そこにいる当事者でもありながら、意外に冷めた目線で的確に描いているんですよね。

 『ライカでグッドバイ』は、戦場カメラマン・沢田教一の生き様を描いた本ですけど、僕自身がNHKで紛争地帯を渡り歩く仕事をする上で、どう生きていけばいいのかを教えられた本だという気がします。

――『記者失格』の中でも、柳澤さんは繰り返し、「とにかく記者とは泥臭く足で稼ぐことだ」と強調されておられました。ここであげていただいた本は、いわばそのお手本。名だたるスター記者たちが書いた本は、抜群に面白いですよね。

 そう思うんですよ。社会の木鐸とか、記者の使命といった理念より、むしろ読んで面白い、この仕事をやってみようかなという気持ちにさせてくれる。今の時代、若い人はそんなことを感じる機会がないんじゃないかな。いろんな面白いものがありすぎちゃって、自分の将来像もいろんな格好で描けるから。

1994年7月5日、パレスチナ自治区ヨルダン川西岸。イスラエルに抵抗するパレスチナ人が道路を封鎖。行く手を阻まれ無線で連絡を取る柳澤さん。

SNSの時代、現場にいかなくても?

――今はもう情報があふれすぎて、何でも机の上、手のひらの上で手に入る時代になりました。

 手のひらにのっかるスマートフォンをのぞいて触っているだけで、さも自分が現場に入ったかのような、いろいろなものが読み取れたり入手できたりする。これは実は錯覚だと思うんですが。それそうなると、普通に考えてみれば行かなくたっていいじゃないかと思うのも無理はないんですけど、そんなつまらないことはないよってことに、気づいてもらえたら嬉しいなと思うんですよね。

――私も社会部が長かったので、「記者は足で稼いでナンボ」と思ってやってきましたけど、その後、立ち上げたばかりのネットメディアに出向したら「写真も動画もいくらでもSNSであげてくれる人がいるのに、なんでわざわざ行かなくちゃいけないの」という議論から始まるわけなんですよ。

 人間、生き物ですからね。自分の目で見て、手で触ってみて、鼻でかいでみて、舌で舐めてみて味を確かめる。自分の五感六感を使って、現実と正面から向き合って物事を実感したいというのが人間の本性だと思うんです。仮想空間の中で物事を頭の中で考えただけでは、実態として現実をとらえることは僕はできないと思う。温泉の写真を見ていたって温泉に入れたわけじゃない。

 ツールは使わないともったいない。天文学だってそうですよ。遠く宇宙のことを知らなきゃいけないけど、行けないから、いろいろな理屈や技術を使って、地球から天空を眺めて、あるいは宇宙空間に打ち上げられた人工衛星のハッブル望遠鏡で宇宙をさぐる。でもアメリカですら、いまだに人を火星に送ろうとプロジェクトを立ち上げてくるぐらいですから。

オンラインツール、楽だけど…

――本当は今回、柳澤さんとも直接お目にかかってお話したかったところでしたが、新型コロナもあってオンラインツールでのインタビューとなりました。

 そうですよ。僕も横浜でサツ回り(警察担当)やりましたけど、警察官の家を夜討ち朝駆けして、膝詰めでいろいろ話してる時、どんな顔して言ってるのか。手の動きはどうか。天井を眺めて言ってるのか、真顔で話しかけてきているのか。言葉だけでは、あるいはリモートで限られた画角の中で相手を見ているだけではわからない。生で向き合った時に、相手の全てからそういうものを感じ取って、質問にどう答えているのか感触を探る世界だと思うんです。それがまた醍醐味だと思うんだけどなあ。

――柳澤さんご出演のテレビ番組も、リモート出演が珍しくなくなりました。

 これ、はっきり言って、楽なんですよ。遠くからでも出演できちゃうし、テレビの画面の中に収まると形になってるんでね。このコロナ禍を考えれば感染リスクは低いんで、いた仕方ないなと思ってはいますが、同じようにテレビでお仕事させて頂いてる方と、スタジオで一緒になると、スタジオとリモートは質がまったく違うって、皆さん異口同音におっしゃるんですよね。

――やっぱりテレビの皆さんもそうおっしゃるんですね。

 不思議なもので、空気っていうんですかね。質問をMCから振られた時に、オンラインで振られた時と、スタジオで振られた時は全然違いますよね。一つの質問をされても、質問通りに答えずに別の自分の話に持っていくようなことも、スタジオにいると結構できるんですよね。

 人間やっぱり一つの空間にいた時に、相手の全てを目で、あるいは他の感覚を使って読み取ってコミュニケーションするんだなっていう感じがするんです。段取りがなくても卓球のラリーと同じように、自然と転がっていくのがスタジオだとあるんですけど、リモートになるともう決められた通り、段取り通りに進めなきゃいけないという意識も働くし、生きたコミュニケーションにはなかなかならないという感じがしますよね。

――私もオンライン取材、実は結構苦手で、相手の間合いがつかめなくて苦労します。

 取材って結構、間合いが大切じゃないですか。言葉で帰ってこないとき、その間合いで相手がどういう表情を作るのかとかね。空気感っていうか、やっぱり生で向き合わなきゃいけない。いくら現場に行ったような映像が入ってきて、自分で目の当たりにできると言っても、行ってみなければ分からないものっていうのがあるんですよね。

――生の感覚は大事ですが、これだけネットやSNSが発達した今の時代、なかなか昔のようにはやりにくくなっています。

 ものづくりとも似ている感じがしますよね。今の時代は既製品をポンと渡されて満足しちゃうかもしれないけど、そんなつまらないことはない。いろんな部品を寄せ集めてきて、それを丁寧に重ね合わせ、あるいは組み合わせながら形になった時に、初めて喜びを実感できますよね。情報がたくさんあると楽だけど、それが当たり前になると、どんどん人間の感覚って退化していくと思うんですよね。

メディアの経営環境激変、どう取材する?

――今、メディアを取り巻く経営環境が厳しくなっていて、現場の記者の人数も減っているし、夜討ち朝駆けの交通費も、予算がどんどん削られていると聞きます。

 私も聞いています。我々の時代は、夜になると報道各社や警視庁前に黒塗りの車がずらっと並んで、ハイヤーを使って夜回りというのが当たり前の時代だった。今は会社が経営的に厳しくなって、そうそう自由に使えなくなってきている。取材の最先端の部分にしわ寄せがきている気がするんですよね。

――一方で、夜回りという取材をやっているのは、ほぼ日本だけ。もしかしたら、メディア同士で無駄に体力を消耗するチキンレースをしているのではないかと思うことがあるんですよね。

 でも、夜回りってネタを取りに行くより、人間関係を作りに行く方が大切だったなという気がします。ネタをもらえなくても、相手と本当に腹を割って話ができることが、どんなに素晴らしいことなのか。単なる取材の手法だと考えずに、人間関係や自分の幅を広げていく一つのプロセスなんだと考えれば、つらいというより、むしろ面白いという感覚が持てるようになるんじゃないかなと思うんですけど。

――夜討ち朝駆けをせずに、濃密な人間関係を築くことを逆に求められる。多分海外のメディアはみんなそうやってるんだろうし、これから求められていくという気はしているんですよね。

 それはありますね。アメリカだとランチミーティングだろうし、夜はあくまでプライベートの時間帯、お互いに不文律で踏み込まないっていうことなんでしょうけど。でも「大統領の陰謀」は、バーンスタインもウッドワードも、いざという時は夜回りやってるんですよね。もちろん、夜討ち朝駆けにあまり重点を置いてもしょうがないという視点も当然だと思いますけどね。

――最近は特に柳澤さんの時代や、私が入社した頃と比べて、職場に女性も増えました。男女問わず、子育てを抱えて夜討ち朝駆けなんて、簡単にはできない。否応なしにそういう時代に切り替わっていくと思います。

 言われてみれば、夜討ち朝駆けっていうのは、男社会の残滓なのかも。女性の役割を規定してしまうと、「これはちょっと変じゃないの」っていう感覚が出てくるのが自然だし。そういう意味では、こうした悩みを考える機会があるのは、社会の一番先端の部分でいろんなものを体感できている、こういう仕事のある種の特権ではありますよね。

1977年9月27日、米軍機が横浜市郊外に墜落、住民3人が死亡、6人が負傷した。墜落現場に立つ米兵と警察官。奥に見えるのは墜落に巻き込まれた住宅。

被害者取材の意味とは

――もう一つ、お伺いしたかったのが、事件取材のあり方についてです。初任地の横浜放送局で、1977年の米軍機墜落事故を取材した体験を書いておられます。

 本当に駆け出しの頃でしたけど、いろんな意味で原点ですね。墜落に巻き込まれた3歳と1歳の兄弟が「ぽっぽっぽ、鳩ぽっぽ」「お水ちょうだい」と言いながら亡くなったという話を先輩記者が取材して、昼のニュースに流れた時、「すごい。なんでこんな話が取れるのか」と驚きました。その先輩は、兄弟のおばあさんの脇にそっと黙って寄り添っていたら、そういう話をしてくれたんだと言っていました。

 質問を矢継ぎ早にぶつけるだけが取材じゃないんだ。相手の立場に立って物事を考え、相手に向けて言葉を発したり、相手の表情を読み取るのが原点なんだ。黙って目の前にある現実と静かに向き合うこと自体が、本当の取材だと、考えさせられた出来事でしたよね。

――今は被害者取材のあり方についてもかなり、世の中から厳しい目が向けられています。本の中でも被害者の顔写真を集める苦悩を書いておられました。私も経験がありますが、なぜこれをしなきゃいけないのか、という自問自答はなかなか答えが出ない。

 カメラを向けられ、記者に迫られて質問に答えるなんて、できる状況じゃないっていうのは、相手の立場に立ったらよくわかるんですよね。だから嫌なんですよ。僕は昔、デスクに「行ったけどなかった」と嘘の報告をしたこともあったぐらいですから。ただひとつ言えることは、相手になぜ、自分の取材に向き合ってもらいたいと思っているかという、その気持ちだけは何らかの形で伝えることが大切だと思うんですよ。

 交通事故で亡くなった子どもの写真を借りようと遺族を訪ねた時に、一緒に訪れた他社の記者が「こんな悲劇は二度と繰り返してほしくない。そういうことを社会に伝えるために、元気なお子さんの写真を掲載させてもらって世の中に訴えたい」と遺族に言っていた。僕は正直、「写真が欲しいがために、いろいろときれいごとを並べてるな」と思ったんですね。でも、そこで写真を出してもらったんです。非常に複雑な気持ちでしたね。こちらの気持ちが、なにがしかはやっぱり伝わったのかなという感じはしたんですよね。

 そこからが本当は大切なことで、結果的に写真を出してもらえなくても、後で当事者も考えてもらうきっかけになるかもしれないし、それはやってみなけりゃわからない。

答えはない、大いに迷え

――最近はいろいろ批判されることもあって、若手の記者からも「何でこんなことをしなければいけないんだ」という問題提起も出るようになりました。

 本当にプライバシーも全然わきまえないような格好で私生活の中に入り込んでいくような取材は、倫理的にも人道的にも認められないことが多々あります。でも我々が何のために被害者取材をするのかということだけは考えた上で、やるかやらないかを決めればいいと思いますね。

 「もうそんな取材できません」という若い人たちが出てきても、それはやむを得ないと思います。それで本当に、自分が今、背負っている、記者という仕事ができているのか。自分の胸に手を当てて考えれば、自ずと結果は出てくると思う。本当に相手の立場に立って、これは人道的にあるべきではないと判断しているんだったら、それは立派な判断だと思います。その後の取材にもいろいろと生きてくると思いますよね。

 そこで大いに迷ってほしい。顔写真集めから逃げたことがある駆け出し時代の自分を棚に上げて言うんですが、入り口まで行かずに手前で引き返すんじゃなくて、とりあえずそこまで行ってみる。迷った上で引き返してくるならいいけど、近づく努力もせずに遠く離れたところから戻ってきてしまったら、「やめちまえ」って、僕なんかつい若い人たちに言っちゃうかもしれない。今は、そんなこと言おうものならとんでもないことになりそうな気もするけど。

――最低限の礼節や相手の事情もわきまえない取材が問題になっている状況は、メディアの側で早急に対策を取らないといけないことです。一方で「お涙頂戴でもうけたいんだろう」という目で見られることもありますが、そう思われるのはやるせないですよね。

 返す言葉がないんですよね。テレビは映像を撮るために、いろんな言葉をぶつけて、相手のリアクションや表情が撮れればしめたものだという世界ですもんね。なんかいやらしいなとも思います。いろいろ自問自答していくことが僕は大切だと思うんです。そこに向き合っていかないと、疑問を持たないし自分で悩むこともない。それでは成長はないと思います。

――私も、なんで本人の断りもなく他人から借りてきて平気なんだろうと、当時は思っていました。でも大きな事件・事故ほど「○人死んだ」という数字の積み重ねになってしまいがちだけど、実は一つ一つの死の積み重ねであることを確認する作業だったなと、今になってみれば思います。

 そうですね。どうしても僕らの仕事は、事故で100人亡くなったとか、戦争で200人殺されたという数字でくくってしまいますよね。でも数字でくくった瞬間に、一人一人の命っていうものを忘れてしまってるんですよね。そこには100の人生があったし、一つ一つの命の重みがあったはずなのに、数字でポンとくくって分かったかのような気になってしまう。

 本当は固有名詞で語るべき、一人一人の、生まれ落ちて育って大人になって、それで命を奪われたという、とんでもない重いものがそこにあるのに、ふっと自分が気を抜いた瞬間に見えなくなってしまう。気付くと空恐ろしくなりますしね。一つ一つの命、一人一人の顔、そして一人一人の人生を頭の中に思い浮かべて、一つ一つ向き合っていく。実際にはなかなか出来ませんけれど、そういう気持ちだけは絶対になくしちゃいけないと思いますよね。

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