「香港はどうしてこうなったのか」気になったら、読んでおきたい5冊 倉田明子さん
記事:じんぶん堂企画室
記事:じんぶん堂企画室
このところ、香港が話題である。
2019年春に始まった「反逃亡犯条例運動」に始まる一連の抗議活動では、警察による苛烈な取締りと、それに呼応して激しさを増したデモ隊の抵抗の姿が世界中に報道され、注目を集めた。2020年に入って、香港政府も市民も新型コロナウィルス肺炎への対応を余儀なくされ、抗議活動は表面的には沈静化する。
ところが5月下旬になって突如、中国の中央政府が香港に適用される「国家安全維持法」を制定するという、前代未聞の決定が発表された。この法律は6月30日の午前中に、中国の国会にあたる北京の全国人民代表大会(全人代)常務委員会で可決され、同日深夜に香港で施行された。
1842年からイギリス植民地だった香港は、1997年に中国に「返還」された。この時導入されたのが「一国二制度」である。共産主義を掲げる中華人民共和国の一部でありながら、返還後50年間は従来の資本主義の諸制度を基本的に保持することが約束された(はずだった)。
香港政府には「高度の自治」が認められ、立法面においても、香港域内に適用される法律は香港の立法機関である立法会の議決によって成立することになっていた。だが、今回の「国家安全維持法」は香港内でのプロセスを一切経ずに、中央政府によって直接制定、施行されたのである。
この法律は「国家分裂」や「国家政権転覆」、「外国勢力と結託して国家安全に危害を加えること」などを罪と定め、最高で終身刑を科す。条文を読んでみると、罪とされる行為の範囲は広いものの具体性には欠けており、恣意的な運用の恐れもぬぐえない。香港居民ではなくても、そして香港以外の場所にいても、この法律に抵触する行為は罪と定められるため、外国人が香港域外でこの法律に違反したと見なされれば、香港に行った際に身柄を拘束される可能性もある。また場合によっては身柄が中国に送られることも明記されている。
同法の施行は、香港に急激な変化をもたらした。海外との連携を積極的に働きかけていた「香港衆志(デモシスト)」や、香港独立を主張していた団体など複数の若者の政治団体が解散し、一部の若手民主活動家は香港を離れた。アメリカは香港問題を理由に中国や香港政府に対する制裁を発動、香港は米中対立の焦点になっている。
そして8月10日には、反政府的な言論で知られる新聞「アップル・デイリー(蘋果日報)」の創業者黎智英(ジミー・ライ)や、元香港衆志のメンバーで、SNS上で積極的に日本語での発信を続けてきた周庭(アグネス・チョウ)らが国家安全維持法違反容疑で逮捕された。特に周庭の逮捕は、このところ香港情勢への関心が薄らいでいた日本でも衝撃をもって報道され、改めて香港への関心を呼び起こしている。
筆者はこの8年ほど、いくつかの大学で香港史の授業を開講してきた。いつも学期末の最終日には、講義全体を通しての感想を書いてもらうことにしているが、毎年必ず「半年学んで台湾のことがよく分かりました!」と無邪気に書いてくる学生がおり、何となく悲しくなったものである。さすがに今年の春の授業ではそんなコメントはなくなった。一方で昨年来の香港そのものの変化があまりに大きく、2019年以前と以後のつながりをどうやったら理解してもらえるのか、この春は途方に暮れるような思いを何度もした。
香港はどうしてこうなったのか。
最近香港に関心を抱くようになった人たちに、これを説明するのはなかなか難しい。それでも、幸いなことに、日本にはもう少し長いスパンで香港を見つめ続けてきた研究者やジャーナリストがおり、昨年来の香港情勢の激変の中、彼らによる香港関連本の出版が相次いでいる。以下ではそうした新しいものを中心に、香港のこれまでと今が分かる本を紹介していきたい。
香港のこれまでを知るには歴史をひもとくのがよい。今のところ唯一の日本語で読める香港通史が、ジョン・キャロル『香港の歴史』(明石書店、2020年)である。
著者は少年時代を香港で過ごした経験を持つアメリカ人で、現在は香港大学で教鞭を執る歴史学者である。本書では、香港史を語る上で欠くことのできないイギリス、中国、香港というそれぞれのアクターに十分目配りしつつ、いずれのイデオロギーとも適度に距離をとった記述がなされている。
本書を読むと、香港という土地がいかに「安定」とはほど遠い歩みをしてきたのか、そして香港の人々がいかにしたたかに時々の困難を切り抜けてきたかが分かる。本文の記述は2000年代初めまでだが、訳者による巻末年表は2020年までカバーしている。
一方、多角的な香港理解の入り口としては野嶋剛『香港とは何か』(ちくま新書、2020年)をぜひおすすめしたい。朝日新聞のシンガポール支局長、台北支局長などを務めた経験のある著者は、2016年に独立し、これまで台湾に関する単著や論考を数多く発表してきた。しかし香港中文大学への留学経験を持つなど香港との縁も深く、特にフリージャーナリストとなってからは香港にも足繁く通い、取材を続けてきた。
本書はそんな著者による渾身の香港入門書である。香港アイデンティティーの実相、そして周庭に加え、本土派の代表的人物となった梁天琦(エドワード・リョン)、游蕙禎への丁寧なインタビュー記録、映画を通してみる香港の歴史、日本と香港のつながり、近年の香港と台湾の連帯など、著者ならではの視点から重層的に香港への理解を深めることができる。まずは手に取ってみて頂きたい1冊である。
もう一冊、香港の入門書として紹介したいのが銭俊華『香港と日本――記憶・表象・アイデンティティ』(ちくま新書、2020年)である。著者は東京大学大学院に在籍する若き香港人研究者である。
本書前半では、香港と中国大陸はどう違うのか、香港アイデンティティーとは何か、といったことが、著者自身の経験も踏まえながら素直な言葉で綴られている。また2019年の香港での一連の抗議活動のなかで生まれたさまざまな用語についての詳細な紹介もあり、直近の香港情勢を理解する上でも有用である。
一方、本書後半では、日本のアニメが香港に与えた影響や、第2次世界大戦中の日本軍による香港占領という歴史事実が香港でどのように記憶され、またそれが近年の香港アイデンティティーの変遷とともにどのように変容してきたか、など、日本と香港の関わりについて述べられている。香港人の目線を日本語で読むことのできる貴重な1冊である。
そしてもう1冊おすすめしたいのが、小川善照『香港デモ戦記』(集英社新書、2020年)である。著者は週刊ポスト記者として事件取材などを精力的に行ってきた一方で、2014年の雨傘運動以来、香港での政治運動や抗議活動の取材を継続してきた。周庭への取材を最も長く続けてきたジャーナリストの一人でもあり、本書の最終章も彼女へのロングインタビューになっている。
ただ、本書の真骨頂は、雨傘運動や昨年の抗議活動で街頭に出てきた名もなき市民たちの声を丁寧に拾い上げている点にある。雨傘運動の失敗の経験を経て、昨年の抗議活動では目立ったリーダーを持たず、顔を隠したデモ参加者たちがSNSを駆使して街頭で戦った。だが本書からは、そんな彼ら彼女らもデモの現場から少し離れれば、いつもの日常の世界に生きる生身の人間であることが見えてくる。オタクだっている。そんな彼ら彼女らがなぜ戦っているのか、等身大の姿と声を、臨場感あふれる本書の語りから感じ取って欲しい。
これらの本を手に取ってみて、さらに香港のことを知りたいと思ったなら、改めて野嶋剛氏の『香港とは何か』第6章を開いてみよう。日本と香港の歴史的な関わりを紹介しながら、日本でこれまで出版されてきた香港関連の書籍がたくさん紹介されている。気になるところから読んでみて欲しい。
そしてその先には、香港についてのより専門的な研究書や論文がある。日本における香港研究も、実は層が厚いのだ。こうした専門書への橋渡しとして、最後にもう1冊紹介しておきたいのが、筆者も編者の一人を務めた『香港危機の深層』(東京外国語大学出版会、2019年)である。
本書は、昨年の香港での抗議運動の背景と実相を日本の人々に伝えるために、香港の政治、法律、経済、社会、文化、歴史を専門とする研究者や運動の関係者などが執筆者となり、運動と同時進行的に緊急で編まれた1冊である(台湾との関係についての章を執筆くださったのは野嶋氏である)。
とは言え、本書に収められた論考はいずれも比較的長いスパンで2019年の香港が「なぜこうなったのか」を解説しており、2020年の香港を理解する上でも有用な知見が詰め込まれている。特に法律に関する章は「国家安全維持法」に揺れる香港の今を理解する助けになるだろう(廣江倫子著)。
また本書には、これまでの香港研究では看過されがちだった香港の「新界」地区について解説した章もある(小栗宏太著)。新界はニュース解説だけでは分からない香港の複雑さを象徴するテーマだ。本書を通してこうした香港の「深層」にもぜひ触れていただければと思う。
さて、香港はこれからどうなっていくのだろうか。
ここで紹介した本を読んでも、その答えを見通すことは難しい。それくらい香港の変化は急激で、変化をもたらす要因も複雑である。ただ、紹介してきた本の書き手たちの誰一人として「香港は終わった」とは思っていないはずだ、ということは強調しておきたい。知れば知るほどに香港は、そして香港の人々は、強靭である。もし香港に興味を持ってくださったのなら、もうしばらくの間、注視していてほしい。