気鋭の経済学者・浜矩子が提言する「共に生きる」ための経済学とは
記事:平凡社
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新型コロナウイルス旋風がグローバル経済社会を震撼させる中で、この文章を書いています。本書を皆さんにご高覧いただく段階では、その猛威も息の根が止まっていることを祈るばかりです。そして、そうなるためには、いま、この時こそ、本書の主題である「共に生きる」力が全人類に問われているのだと確信するところです。
ところが、人類が共に生きる力は、実をいえば、コロナ騒動が降って湧く前の段階で既にかなりの危機にさらされるようになっていました。ここぞという時を迎えたというのに、これは何とも厳しいことです。
我々の共に生きる力を脅かしている力学を象徴しているのが、ディグローバリゼーション(deglobalisation)という言葉です。「グローバルではなくなる」の意です。
当たり前の訳し方をすれば、この場合の「ディ」には「非」を当てて非グローバリゼーションあるいは非グローバル化とするところでしょう。
ですが、筆者には、どうもこれではしっくりきません。単なる「非」では弱い。インパクト不足に感じてしまいます。そこで筆者は、この「ディ」を「破」とすることにしました。「破グローバリゼーション」です。グローバリゼーションを破壊する。グローバル時代を破滅に追い込む。ビリビリと音を立ててグローバル時代を破り捨てる。このようなイメージです。
アメリカのトランプ親爺(おやじ)を筆頭に、一国主義を声高に掲げる政治家の数々が地球上を闊歩する。米中通商戦争が湧き起こって国境を越えたサプライチェーンを破断していく。イギリスがEU(欧州連合)から離脱する。まさに破グローバルの様相が深まっています。
そうした中で、もう一つの「ディ」言葉もさかんに人びとの口の端に上るようになりました。その言葉は「ディカップリング(decouping)」です。これは分かれることを意味する表現です。カップルではなくなるというわけです。ひと頃まで、アメリカと中国は「チャイメリカ」化したなどといわれていました。チャイナとアメリカの経済が一体化して一つの経済になったというイメージです。そこまで、両国の経済が切っても切れない融合関係を持つに至ったというわけです。ところが、いまや、この関係が関税引き上げ合戦やハイテク製品の禁輸と締め出しの応酬などでどんどん切り裂かれつつあります。
ディグローバル化もディカップリングも、別段、いいじゃないか。むしろ、大いに結構。そう思われる向きもおいでかと思います。グローバル化が進み過ぎれば、それに伴って格差と貧困が深まる。あまりにもチャイメリカ化したことで、アメリカの労働者たちは職を奪われてしまったのではないか。グローバル化は我々を不幸にするのではないか。ヒトもモノもカネも、あまり国境を越えなくていい。自前主義に戻った方がいい。世のため人のためを思われる善き市民であればあるほど、そのように感じておいでかもしれません。
確かに、経済がグローバル化することには、実際問題としてそうした思いを引き出す諸側面があることを否定できません。経済活動の国境を越えた相互浸透が進めば、どうしても、そのことがもたらす功罪が交錯します。ですが、罪が功を一義的に上回ると決めつけることは危険です。まさに、そうした決めつけ自体が、グローバル化の罪を膨れ上がらせて、その功をもみ消してしまうでしょう。
どうすればそのような成りゆきを回避し、グローバル時代を人類にとって善き時代とすることができるのか。それを突き止めることが、いま、この時、それこそ人類的課題になっているのだと思うところです。結論的にいえば、筆者は、このグローバル化という流れの中でこそ、我々は真の共に生きる力を育んでいくことができるのだと確信しています。なぜそう確信するのかということについては、本論の中で順次ご説明申し上げていきたいと思います。
我々をして「ディグローバル化も悪くないかも」と思わしめる諸問題の中でも、 筆者がことのほか厄介だなと思うものが一つあります。それが「豊かさの中の貧困」問題です。総じてみれば豊かな経済社会の中に、貧困ゾーンが出現してしまう。
そこに追い込まれた人びとは、自分たちは後れを取り、取り残され、見捨てられ、振り落とされていくのだと感じる。
こうして自分たちが置いてけぼりを食らうのは、グローバル化の進展のせいだ。彼らがそう思い込んでしまう、あるいは思い込まされてしまうと、そのことがディグローバル化礼賛論につながっていきます。ディグローバル化を礼賛することは、結局のところ、国家主義の礼賛をもたらし、排外主義にお墨付きを与えることにつながってしまいます。
そのような認識環境の中で、我々が共に生きる力を育むことなどできるわけがありません。ところが、この豊かさの中の貧困問題が、グローバル化の進行とともに出現してきたということも、現象的にみれば明らかに否定できない面があります。ここが、何とも厄介なところなのです。注意深く見ていけば、グローバル化の流れそれ自体に、おのずと「豊かさの中の貧困」をもたらす力学が内在しているとはいえないと思います。
問題は、グローバル化そのものではなく、この現象への国々や企業の反応と対応だと考えるべきでしょう。しかしながら、この辺りの仕分けはなかなか難しい。だから、ともすれば、グローバル化こそ諸悪の根源だという短絡的な考え方が独り歩きしがちです。この構図についても、本書の発見の旅を通じて掘り下げていきたいと考えています。
(浜矩子著『「共に生きる」ための経済学』「はじめに」より引用)
第1章 違うからこそ共に生きる
日本の中の「豊かさの中の貧困」/豊かさと貧困の四つの関係/下心政治が我々を共生から遠ざける/「攻めのガバナンス」に追い立てられてきた日本企業/「働き方改革」でギグワーカー化に追いやられる日本の働く人びと/無責任を決め込む21世紀の口入屋たち/立て、万色の労働者!
第2章 共に生きるとはどう生きることか
共に生きられるための条件と邪魔者/「共感性」とは相憐れむ力/江戸の長屋社会にみる「開放性」/共存を共生に発展させる「包摂性」/「依存性」があるからこその共感力/グローバル化が生む焦り/焦りが生む国家の出しゃばり/国家の出しゃばりが生む成長至上主義/ヒト本位からカネ本位へ
第3章 カネの暴走からヒトの共生をどう守るか
いまは第三次グローバル化時代/お茶の間に飛び込んだグローバル化/お茶の間から地球を制したミセス・ワタナベたち/カネはヒト化しヒトはモノ化する/金融と信用の決別を招いたグローバル・マネー/福袋化された金融/貸借から相対性(あいたいせい)が消えて金融パンデミックが起こった/見えない化する通貨/暗号通貨は諸刃の剣/諸刃の剣はやっぱり怖い
第4章 つながり過ぎていて共生できない
ITもまた諸刃の剣/オンデマンド化がもたらす孤立/民泊の中に出会いなし/ケアなきシェアは奪い合い/つながり過ぎがもたらす分断と排除/コロナ禍によるパンデミック下のインフォデミック/水のごとき市民革命の助け手となれるか/差し伸べ合う手と手を結びつけられるか/警戒すべきは偽りの三段論法
第5章 国境を「超えて」共に生きる
国境は越えられなくても超えられる/超国境人をプロファイリングすれば/善きサマリア人と如水の市民革命家たち/今日的義賊の香り高きオキュパイ運動/求められるのは市民たちの脱国民化/日本国憲法が示すグローバル共生時代の国家像/憲法前文の中にある三筋の光明/共生から最も遠い国/開かれた小国群にみなぎる共生力
終章 真の共生はいずこに
真の共生しか破グローバルの魔物に打ち勝てない/真の共生は相異なる者たちによる自覚的共生/国家主義に真の共生の阻害要因を呼び覚まさせてはならない/カネが優位に立つことを許すと真の共生は消滅する/つながるだけでは真の共生は成り立たない/真の共生は国境を超える/希望は小さき者たちの中に