もう一つの近代神道 『近代日本宗教史』刊行に寄せて(下)
記事:春秋社
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『近代日本宗教史』は、全6巻からなる。それぞれの巻は、明治前期・明治後期・大正期・昭和前期・昭和中期・昭和後期平成期を扱う。元号によってそれほどはっきり区別がつくわけではないが、大まかな目安である。1巻はだいたい20~30年程度を収めることになる。もちろん、この分野において、これだけ詳しい通史はこれまでない。
これはまったくの個人的で大雑把な印象に過ぎないが、これらの各巻の扱う時代を順にみていくと、宗教が大きく盛り上がる時代と、やや宗教離れの時代とが交互に入れ替わっているように見える。即ち、明治前期の文明開化期は宗教があまり前面に出ることはない。維新後の啓蒙活動や新制度の確立、それに自由民権運動などの政治運動に勢力が費やされる。ところが、それが一段落して明治後期になると、青年や知識人の眼が内面に向かい、宗教的な問題が浮上する。井上哲次郎とキリスト者による「教育と宗教の衝突」論争のように、宗教の問題が正面から論じられるようになる。
次の大正期は、確かに生命主義的な動向は宗教をも含み込むものではあるが、必ずしも宗教が前面に出るわけではない。生命賛美や人格主義のように、非宗教的な動向が注目される。それが昭和前期になると、マルクス主義からの転向や超国家主義的な戦時体制の中で、再び宗教へと関心が向かう。第2次大戦後は、実際には「神々のラッシュアワー」と呼ばれるほどの宗教ブームがありながら、表面的には近代化・合理化の進展の中で宗教の問題が置き去りにされる。昭和の終わりから平成へかけては、オウム真理教に代表されるような新しい宗教への関心が高まる。
このように、宗教への関心と無関心とが交互に展開している。前近代を考えても、例えば、戦国時代にはキリシタンの伸張や一向一揆によって宗教勢力が大きくなるが、信長によって一掃される。近世はじめは仏教がある程度の力を発揮したが、18世紀には世俗主義、合理主義が進展して宗教的な雰囲気が後退する。しかし、19世紀になると、平田派国学の影響で神道が大きな影響力を発揮するようになる。このように、前近代においても、宗教高揚の時代と後退の時代とが交替して現れる。かつての近代化論、世俗化論のように、一方向に進展するということはなく、宗教の進展と後退が繰り返されている。それが近代につながると考えられる。歴史は大きなうねりの連続として見ることができる。
さて、シリーズの第1回配本は、第1巻の明治前期である。幕末の尊王攘夷運動における平田派の国学・神道の伸張に始まり、明治国家は最初神道重視の立場を取るが、それでは欧米先進国の仲間入りができないということから、方向を転換して、宗教を離れた世俗国家を目指すようになる。その中で、神道は天皇の祭祀に集約することで、「非宗教」の国家神道の道を進む。仏教は新政府と付かず離れずの関係を保ちながら、近代宗教へと転換を図る。新来のキリスト教は欧米の宣教師の布教に始まり、次第に日本人のキリスト教のあり方を模索してゆく。こうして、さまざまな近代を展開することになる。
第1巻を担当して、私自身最近関心を持ちながら、まだ十分に解明しきれていない問題がある。それは維新の原動力としての平田派国学・神道の再検討である。以前から「草莽の国学」として知られていたが、とりわけ島崎藤村の『夜明け前』に描かれた南信濃の豪農たちの国学運動は、宮地正人『歴史のなかの『夜明け前』』(吉川弘文館、2015)で丁寧に実証され、改めて注目されることになった。
私自身がとりわけ注目しているのは、平田門下の六人部是香(むとべよしか、1798~1864)である。六人部は京都近郊の向日(むこう)神社の神官で、服部中庸(はっとりなかつね)の『三大考』、平田篤胤の『霊能真柱(たまのみはしら)』を受けながら、独自の神道神学体系を構築する。それは、ムスビ三神による天地創造に始まる。天界の統治者として天照大御神、地界の指導者として大国主神が定まるが、大国主は顕界を皇孫に譲り、自らは幽冥界の統治者となる。人の誕生はカミムスビ神が司り、死後は大国主が司る。大国主は生前の行為によって死者を裁き、神位界と凶徒界に振り分ける。ただし、直接には人の生死に関することは、各地域のウブスナ神が担当する。
このように、世界の創造、天照と大国主の分業、顕界に対する幽冥界の優位、死後の裁判、ウブスナ神による地域への定着など、さまざまな注目される要素を含み、しかもそれらが壮大な神学体系を構成している。ウブスナ神から大国主へとボトムアップ型に積み上げる発想は、維新後の神道が天皇からのトップダウン型であるのとまったく異なり、逆向きである。このように、幕末には、維新後の天皇中心国家の中で消されてしまった様々な可能性を持った思想・宗教が展開している。これまで幕末平田派はそのまま明治に直結され、国家神道へと一直線のように捉えられてきたが、そうではない広がりを持っている。それをもう一度見直すべきではないかと考えている。