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鎌倉時代に仏教が隆盛した背景には、重商主義があった 『維新と敗戦』より

記事:晶文社

『維新と敗戦――学びなおし近代日本思想史』(晶文社)
『維新と敗戦――学びなおし近代日本思想史』(晶文社)

高校生の些細な質問が生み出した“網野史学”

 都立高校の非常勤講師だった網野は、ある日の授業中、生徒の質問を聞いてがく然とする。「先生、なぜ鎌倉時代に一気に仏教が隆盛したのですか」

 親鸞・一遍上人・日蓮など誰でも知っている鎌倉仏教が、なぜあの時代に噴出したのか。教え子の高校生の単純な問いに網野は口籠った。この問いに挑むため、史料の森深く分け入り、史料に汗が滴り落ちるのもかまわず、ひたすら中世の人びとの声に耳を澄ました。

 すると中世には不思議な「空間」があって、河原や大木の下、あるいは神社の境内に市場がたつ。そこは品物はもちろん、売買する者の身分さえ問われず、すべては平等に交易される場所だった。

 たとえば、神社のような神の支配する空間に注目しよう。そこで売買される物品は、銭を使用することで交換価値をもつ「商品」となる。しかも銭を使うことは、神を喜ばせる神聖で特別な行為でもあったのだ。こうした、日常生活のルールや秩序から外れた場所、それを「無縁」「楽」などと網野は呼んだ。すると縁切り寺などの仏閣も、同様の役割をもつことが分かってきた。そこへ逃げ込めば、日常のルール=夫婦の縁を切ることができる。これはまさしく非日常で「自由」な空間ではないか。

 戦後日本歴史学の主流であったマルクス主義史学では、説明しきれない人びとが列島各地で蠢いていた。商人ばかりではない、漁民もそうである。唯物史観のように土地を重視した歴史観ではとらえきれない、自在に遍歴する人びとが列島には溢れている。

 では、中世の自由な空間で自由な交易を率先して進めていたのは誰か。それが天皇、具体的には後醍醐天皇であった。当時の中国大陸では、南宋から北方騎馬民族の元へと政権が交代したのだが、その際、海外流出した宋銭(貨幣)を積極的にもちいることを選択した人物が、後醍醐天皇と足利義満だったのである。

 商人が内裏に出入できたほどの商工民の重視、宋元風の文物・制度の大胆な摂取に目を向ければ、後醍醐の政治は後年の足利義満の政治を先取りした一面すら持つといいうる。実際、後醍醐の中国に対する関心はなみなみならぬものがあった。(『異形の王権』)

 後醍醐天皇と足利義満こそ、大陸との貿易を押し進め積極的にグローバル化を展開した張本人なのであった。また当時の漁民たちの自在に移動する生き方は、まるで商品が銭によって自由に人から人の手にわたるイメージにぴったり重なるように思われた。

 これらの自由な交易と移動から網野は、中世を「重商主義」の時代だと定義した。ここから今日の新自由主義経済、グローバル資本主義を想起することは容易いだろう。後醍醐天皇と義満は、当時の世界経済のなかに、日本を組み込もうとしていたわけだ。

 ただし、今日と決定的なちがいもある。それは交易が行なわれる場所が、神社仏閣の周辺からはじまったということである。商品となったモノが神仏の前で交換されるとは、つまり、神仏の視線をつねに浴びていて、ある一定の規範のもと適正な利益追求が行なわれていたということだ。

 神仏の眼という「倫理」が、中世の資本主義に安定性をあたえ、銭を使うことは神々から祝福される行為であり、商人はある種の神聖性を帯びてもいた。

 この神聖な空間での交易というイメージが決定的に崩壊したのが、今日、私たちの眼の前にあるグローバル資本主義である。倫理がなきに等しい現在は、河原や大木の下、神社仏閣の結界が消滅し、資本主義の欲望が世間一面を覆いつくしているような状態なのである。

中世に資本主義の萌芽を見出す

 さらに網野は、重商主義者・後醍醐の別の一面を発見する。それは戦後の私たちが抱く天皇イメージ、平和で健康的な天皇像をゆるがすものだった。

 それは後醍醐が行なった祈祷に顕著である。元徳元年(一三二九)に行なわれた祈祷は、「聖天供(しょうでんく)」という儀式だった。聖天を本尊としての祈祷だが、本尊大聖歓喜天とは、名前からも推測できるように、男女の抱合と和合の像である。密教の法服を身にまとった天皇が、護摩を焚きゆらめく炎のむこう側で、一心不乱に祈祷をしている。滴る汗に濡れた天皇が求めてやまないのは、人間にやどる性的なもの、セックスの力を我がものにすることだった。

 後醍醐天皇はこの祈祷で、異常な力を、世間の秩序をこえた巨大なエネルギーを身につけようとしていたのである。定住農耕がはじまる以前の、もっと原始的な不定形な力を身に帯びた天皇として、後醍醐は他を圧倒し君臨しようとしたはずなのである。

 天皇の役割をめぐって、三島由紀夫の天皇論を思いだそう。後醍醐天皇は三島由紀夫が求めてやまない天皇像、文化を包括する天皇なのだと言ってよい。実際、三島は天皇にセックスやエロチシズムへの共鳴を求めていたからだ。天皇は文化的であれ、とは人間の非合理な部分を包容せよという意味に他ならない──「文化概念としての天皇は、国家権力と秩序の側だけにあるのみではなく、無秩序の側へも手をさしのべていたのである」(『文化防衛論』)。このとき、三島の脳裏を、網野史学の後醍醐天皇がよぎっていたことは間違いない。

 後醍醐天皇時代、河原や大木の下、神社仏閣など限られた場所で生きていた商人が、都市の成立とともに世間に溢れだし利潤を貪る。神仏の秩序が瓦解した後の交易は、かくして過剰に富を貪る「悪人」となり、人びとから蔑視の対象になってゆく。つまり世間に余計者と悪人が出現し、差別意識が生まれる。そしてこの時、親鸞・一遍・日蓮など鎌倉仏教が誕生してくるのだ。新たに出現した悪人を救済するために、親鸞は「悪人正機」を叫び、一遍上人は彼らとともに遊行を行ない、差別を否定したのだ。

 鎌倉仏教の誕生には、重商主義とグローバル資本主義という世界史的な動向が関係していたのである。

(先崎彰容『維新と敗戦――学びなおし近代日本思想史』より抜粋)

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