メディアに包囲された日常を批判するために 『記号論講義 ―日常生活批判のためのレッスン』
記事:筑摩書房
記事:筑摩書房
この本は「意味批判」の書です、というと、
え、意味批判?、うーん、むずかしいことを言うね、と思うでしょうか。
コトバや文字や絵や写真や映画やテレビや音楽がつくりだしている「意味」の世界を考えるというのがこの本のテーマです。
人間の意味の世界を生みだす要素のことを「記号論」では「記号」と呼ぶのです。
現代人の生活では、意味を生みだす活動の多くはメディア技術にサポートされています。メールをおくったり、チャットしたり、電話をかけたりというコトバや文字のやりとり、映画やテレビや動画サイトでのイメージのやりとりのように、現代人はメディアを使ってコミュニケーションして生活しています。
本書は、そのとき何が起こっているのかを学問的に理解する方法の手ほどきをします。それが「意味批判」の方法序説です。でも抽象的な議論ではなく、読者の皆さんに実感してもらうために、日常的な具体例をもとにしたレッスンが行われるのです。
この本が最初に書かれたのは2000年代でした。1990年代から2000年代の事例を同時代の題材としているので、新しい読者の皆さんは、ああ、もうこれらは過去の事例なのではないか、と思われるかもしれません。
でも、私としては、次のように考えています。
この本はもともとマニュアルとしてではなく、知の方法の書として書かれているのです。
それは、どのようなことなのでしょうか。
「批判」(あるいは「批評」とは英語やフランス語やドイツ語の「クリティーク」がもとの言葉です。「クリティーク」とは、考察の対象を前に、それが何であるのかを、自分で正確に理解しようとすることです。自分で考えて、自分の力で考えることができるようになること。それが「批判の力」を手に入れることです。この本は、メディアに囲まれた現代人の意味世界について、クリティカルに思考する方法を身につけるためのレッスンなのです。
本書では、広告のコピーやCMやテレビ番組のようなメディア社会の現象を取り上げるときにも、記号やメディアの現象の本質を表しているような優れた題材を厳選してとりあげて、芸術や美術の作品と同列に扱って考察します。すぐれた芸術作品はそれ自体が、新しい意味を作り出すと同時に意味の世界とは何かを批評している。すぐれた広告やCMも私たちの世界の意味を創造すると同時に批評している。その批評の力を芸術や文学や広告の個々の領域にとどめておくのではなくて、意味がどうつくられれているのか摑むための方法として一般化して、私たち自身のメディア化した世界を考える手がかりにしていこうというのが、「日常生活批判のためのレッスン」なのです。
うーん、それでは抽象的すぎて分からん、とおっしゃるかもしれないですね。
それでは、幾つかの例を示しましょう。
たとえば、本書の第1章では、三つのモノのあり方をとりあげています。三つ目のモノのあり方、メディアの表層にうかぶモノのあり方としてウォーホルのパンプスを採り上げています。そして、ボードリヤールの「モノは消費されるためには記号にならなければならない」という定式を引用しています。2020年の今であれば、モノのインターネットといわれるように、すべてのモノが情報を担っています。そうすると「モノは消費されるためには情報にならなければならない」とも考えることができる。本書のレッスンのもう一歩先まで問いを進めることができそうです。そして、あなたが問題をステップアップさせたときに、さらに次に問題となるのは、どのようなことでしょうか。私なら、次のように問いをさらに延長させます。「モノを消費するためには、ヒトもまた情報にならなければならない」、と。 amazonなどのヴァーチャル・モールでのネットショッピングやレコメンデーションシステムのことを考えてみてください。そうすると次に「記号」と「情報」との関係はどうなっているのか、と考えることになりますね。それは、本書の第11章で扱う「情報記号論」の問題です。
第6章で扱う都市のイメージについていま考えるとすれば、人びとは頭の中にある想像的な地図だけでなく、GPSによって位置情報をつねに捕捉され、カーナビに誘導されて都市を移動し、スマートフォンでグーグルマップに導かれながら町を歩いている、というのが日常生活になっていますね。ここにも記号と情報との新しい関係が見えてきますね。そうすると、スマホを持って町を歩いているとはどのようなことなのだろうか、と新たな問いが浮かんできますね。そうしたら、つぎに、問いをさらに発展させるには、どんな方法があるだろうか、と考えますね。
たとえば、私なら、この本での写真家荒木経惟と同じような役割を果たしてくれるアーティストがいるだろうか、と考えます。例えば、友人のメディアアーティスト藤幡正樹さんのField-WorksというGPSを使った作品シリーズなどにはそのようなテーマがあるのでヒントが見つからないか、とか考え始めますね。こんなふうに、この本から出発して、現在の人びとのメディア生活の「意味批判」にまで理解を進めることができるはずです。
第8章では、身体、イメージ、権力についてレッスンを行いました。そこも同じように現在のメディア環境に合わせて問いを進化させることができますね。私たちは、スマホで自己撮り(セルフィー)してナルシシズムを充足させ、自分のカラダを考えるときにも、AppleWatch のようなウェアラブルコンピュータを身につけて自己の数値を管理し、自己目標を設定するなどしていたりしますね。そのようなセルフコントロールの問題と、ハイパーコントロール社会と呼ばれたりする監視社会の進行とは結びついていますね。
以上は、この本に書かれてあることの延長上で、21世紀になって起こってきていることをどのように考えればよいのかという例題と、その解答例です。
このように、この本を手がかりにして、この本が書かれた時代よりもさらにもっとメディアが進化し、より完璧にメディアに包囲された世界に住んでいる、2020年代の私たちの「日常生活批判」のための手がかりをつかんでもらえればというのがこの本をあらためて文庫本として世に送り出す著者の思いです。