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なぜ天皇は国民に崇敬されるのか?「軍神乃木将軍」が果たした役割とは 島薗進『神聖天皇のゆくえ』より

記事:筑摩書房

original image: ruskpp / stock.adobe.com
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乃木希典と旅順攻略戦

 乃木の天皇崇敬は長州萩の松下村塾の尊王の志士たちを育てた吉田松陰(よしだしょういん)(1830~59年)の「天下は万民の天下にあらず、天下は一人(天皇)の天下なり」という一君万民思想とも近く、水戸学の会沢正志斎や神道家の真木和泉(まきいずみ)などの尊王攘夷の思想をそのまま引き継いでいます。その殉死にともなって天皇の忠臣としてのエピソードが新聞などで盛んに取り上げられ、情的で濃厚な忠誠心というものが国民の心に強く刻まれていくことになりました。

 日露戦争から乃木が凱旋入京したのは1906(明治39)年の1月14日です。乃木は直ちに皇居に参内し、明治天皇に対し「復命書」を奏上しました。旅順攻略と奉天会戦での戦績を淡々と述べた後、自らの感懐を述べる段に入ります。まことに感動的なものです。

之ヲ要スルニ本軍ノ作戦目的ヲ達スルヲ得タルハ 陛下ノ御稜威(みいつ)(威光)ト上級統帥部ノ指導並ニ友軍ノ協力トニ頼(よ)ル。而(しこう)シテ作戦十六箇月間我将卒(わがしようそつ)(将兵)ノ常ニ勁敵(けいてき)(強敵)ト健闘シ、忠勇義烈(ちゆうゆうぎれつ)死ヲ視ルコト帰(き)スルガ如ク、弾ニ斃(たお)レ剣ニ殪ルルモノ皆 陛下ノ萬歳ヲ喚呼(かんこ)シ、欣然(きんぜん)トシテ瞑目シタルハ臣之(しんこれ)ヲ伏奏セザラント欲スルモ能(あた)ハズ。然(しか)ルニ斯(かく)ノ如キ忠勇ノ将卒ヲ以テシテ、旅順ノ攻城ニハ半歳ノ長日月ヲ要シ、多大ノ犠牲ヲ供シ、奉天(ほうてん)附近ノ会戦ニハ、攻撃力ノ欠乏ニ因(よ)リ退路遮断ノ任務ヲ全ウスルニ至ラズ、又敵騎大集団ノ我ガ左側背ニ行動スルニ当リ、此(これ)ヲ撃擁(げきよう)スルノ好機ヲ獲(え)ザリシハ、臣ガ終生ノ遺憾ニシテ、恐懼(きようく)措(お)ク能(あた)ハザル所ナリ。

死を覚悟した突撃を命じた乃木

 旅順攻略戦以来、乃木軍は全部で数万人が死にました。戦闘より脚気で死ぬ兵士も多かったようですが、旅順攻略作戦で死んだ陸軍の歩兵は多かったのです。

 旅順攻略戦の最終段階で乃木は白襷隊(しろだすきたい)(特別予備隊)という3000名の部隊を組織しました。夜間に刀と銃剣をもって敵陣に責め込む攻撃隊です。岡田幹彦『乃木希典』(展転社、2001年)によれば、白襷隊に対する乃木の訓示は次のようなものでした。

 今や陸には敵軍の大増加あり、海にはバルチック艦隊の廻航遠きにもあらず。国家の安危は我が攻囲軍の成否によりて決せられんとす。この時にあたり特別予備隊の壮挙を敢行す。予はまさに死地に就かんとする当隊に対し、嘱望の切実なるものあるを禁ぜず。一死君国に殉ずべきは実に今日に在り。希(こいねがわ)くは努力せよ。

 そして、乃木は整列する将兵の間をめぐり歩き、滂沱(ぼうだ)の涙を流して握手し、ただ「死んでくれ、死んでくれ」と言ったと伝えられている。

 これは特攻隊に通じるものです。日露戦争のとき、すでに特攻隊の基盤ができています。

 そして乃木が天皇に向かって復命書を読み上げるときの様子が松下芳男『乃木希典』(吉川弘文館、1960年)には次のように書かれています。

 右の旅順城攻城に多大の犠牲を供したという字句にいたるや、「熱涙双頬(そうきよう)なかれいくたびか言葉たえて、痛恨の状きわまるところをしらなかった。そして復命を終ってから「ひとえにこれ微臣が不敏の罪、仰ぎ願わくは臣に死を賜(たま)へ、割腹して罪を謝し奉りたい」と言上して平伏した。天皇はしばらく言葉もなかったが、やがて悄然として退出しようとする乃木を呼びとめられて、「今は死ぬべきときではない。卿(けい)もし死を願うならば、われの世を去りてのちにせよ」といわれたという。この日第三軍と乃木軍司令官に、「卿の勲績と将卒の忠勇を嘉尚(かしよう)す」という意味の勅語をたまわった。

明治天皇への乃木の宗教的心情

 この復命の後、明治天皇は乃木に学習院の院長就任を命じました。「お前の子供二人はいなくなったのだから、お前には別の子供たちを与える」という情のこもった温かい処遇です。

 乃木は明治天皇に対して二人称的な親しさ、またたいへん情的で美談にふさわしい関係をもっていたことになります。かつては親分子分的とか浪花節的とか形容されたような情的な上下関係が人々の心に沁みたのです。乃木の天皇への親愛の情は、妻とともに自害した自邸で発見された乃木の辞世の歌にもよくあらわれています。

神あがりあがりましぬる大君(おおきみ)のみあとはるかにをろがみまつる(奉悼)

うつし世を神去りましし大君のみあとしたひて我がゆくなり(辞世)

 「奉悼」は明治天皇の葬儀にあたってその死を悼む歌、「辞世」は自らが世を去る思いを詠んだ歌です。いずれも宗教的な響きの強い歌です。わが身を捧げる献身的な軍人乃木希典の人物像は、日本の軍隊の宗教性を強める上で大きな役割を果たしました。

 乃木は「天皇の軍隊」を構成する軍人・兵士の理想とされ、一般国民にも乃木大将を理想とする見方が広められます。また。乃木殉死の衝撃によって日本の軍隊は、乃木が天皇への宗教的忠誠心を象徴するものと見なした軍旗を御真影と同様の神的なもの、聖なるものとして遇するようになりました。日本の軍隊に広まっていくこうした宗教的傾向は明治天皇の死によって、またそれに続く乃木の殉死によってさらに高まったのです。わが身を犠牲にして戦うことをすべての兵士に求めるようになるのも、旅順攻略作戦が素晴らしいこととして伝えられ、教えられていったことが一つの要因になりました。

乃木大将と軍国美談

 当時、日露戦争の旅順要塞の攻略戦で多くの戦死者を出した乃木希典の評価は大きく割れていました。しかし、殉死の後、世論は圧倒的に乃木賛美に流れていきました。9月18日に赤坂の乃木邸から葬儀が行われた青山斎場に向かう行列にはたいへんな数の人々が集まりました。その後も乃木邸を見にくる人があり、そばに乃木を軍神として祀る祠ができて多くの人が参拝しました。そして1923(大正12)年に自邸の隣りに乃木神社が創建されます。明治神宮に明治天皇・昭憲皇太后が神として祀られた3年後のことです。

 乃木希典は国定教科書の「軍国美談」とよばれるものの中でも、第二期(1910~17年)から第五期(1941年~45年)まで、もっとも長期にわたり頻繁に取り上げられたものとなりました(中内敏夫『軍国美談と教科書』岩波書店、1988年)。これまで尊皇の物語で人気の忠臣には『太平記』の楠木正成がいましたが、南北朝時代の正成はさすがにも古いので、その人気が乃木希典へと継承されていったともいえます。

 もっとも根強い乃木教材の一つは日露戦争終結後、乃木大将がロシア軍のステッセル将軍とまみえた「水師営の会見」の逸話です。第三期の国語教科書からその一部を引きましょう。

乃木大将はおごそかに、/御めぐみ深き大君の/大みことのりつとうれば、/彼かしこみて謝しまつる。
昨日の敵は今日の友、/語る言葉もうちとけて、/我はたたえつ、彼の防御。/彼はたたえつ、我が武勇。

 天皇のためにわが身を捧げる軍人や将兵が理想的人格として讃えられる際、圧倒的に強力なモデルとなったのが乃木希典でした。『軍国美談と教科書』のこの指摘は重要です。楠公を尊んだ幕末期の尊皇論や国体論は、少数の武士らのものでした。神聖天皇が広く国民共同体に共有される明治末以降の段階では、軍神乃木将軍の果たした役割が小さくありませんでした。国定教科書だけではなく、通俗修養講和や講談、そして映画等を通して、「乃木神話」(佐々木英昭『乃木希典─予は諸君の子弟を殺したり』ミネルヴァ書房、2005年)は強力に国民生活に浸透していきました。乃木将軍の軍国美談は、皇道を掲げる大正維新や昭和維新の運動の基盤となる神聖天皇崇敬の欠かせない一部となっていったのです。

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