「性教育」の教科書としても画期的! ヒトの科学を教える『14歳からの生物学』 アフターピルやIUDも図解
記事:白水社
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2020年3月11日、WHO(世界保健機関)は 新型コロナウイルスの感染拡大はパンデミック(世界的流行)に相当すると宣言した。このウイルスは咳、クシャミ等でウイルスエアロゾル(ウイルスを含む唾液飛沫)による飛沫感染、あるいはそれが付着して広がる接触感染ルートで多くの人が感染する。その防止にはマスクの着用、頻繁な手洗いを行い、「3密」(密閉、密集、密接)を避けることが求められている。インフルエンザウイルスに比べ、高い感染力と死亡率、これから南半球での蔓延も危惧される。そのあとは北半球における第二波も警戒が必要だ。感染症から身を守るにはどうしたらよいだろう。
さらに、このコロナ禍で学校が長期休講となった今春、10代からの妊娠相談が支援団体に相次いで寄せられている。朝日新聞の6月2日夕刊によるとNPO法人、ピッコラーレの「にんしんSOS東京」には前年比1・6倍の相談があった。同法人の松下清美理事は「性教育が行き届いていないという以前からの問題がコロナ禍によって表出している」と指摘している。コロナウイルスの感染機会を減らし、意にそぐわない妊娠を回避する上でも、国民の衛生に関するリテラシーが今、求められている。
私は毎年、国際生物学オリンピックの日本チームの一員として参加する。60数カ国で選抜された代表高校生(国当たり4名)が生物学の考え方や実験スキルを競う。生徒たちのほか、問題文を各国語に翻訳するため、教員も多数参加する。
教員たちは自分たちが使っている高校生物の教科書を持ち込み、その内容比較も行う。日本の教科書はコンパクトで人気がある。その反面、アジアや欧米の教科書と比べ、「ヒトの生物学」が極めて乏しい。
日本の高校生物教科書は理学系の研究者が執筆し、医学系は動員されない。そのため、ヒトの遺伝病より大腸菌やハエの突然変異に力点がおかれる。大腸菌のウイルスは述べても、ヒトのウイルス感染症に関する記述は少ない。その一方、高校生物の学習指導要領には病気の予防や治療という観点はないからだ。「ヒトの生物学」がないが、他国の教科書より専門的な基礎生物学的分野が詳述してある。将来、生命科学を専攻する人には良いだろうが、一般の生徒には魅力やメッセージ性は乏しい。
文部科学省は2009年に行った高等学校学習指導要領の改訂で理科に新しい総合科目として「科学と人間生活」を新設した。これは身近な自然や科学技術と人間生活の関わりについて学ぶ科目となっており、身近な題材について観察や実験を通して学ぶことによって科学の有用性を実感させるとともに科学に対する興味・関心を持たせることを目的とした新しい試みだ。
私も「科学と人間生活」の執筆に関与した。教科書執筆の過程で文科省専門官と折衝する機会があった。私は「微生物」を担当しており、ウイルスに関する記載で専門官と意見の齟齬があった。毎冬に悩まされるインフルエンザ、さらにがんまでがウイルス感染と関係がある場合があると書いたからだ。ヒトパピローマウイルスやB、C、E型肝炎ウイルスは子宮頚がんや肝臓がんと関係があると書いた私の原稿が不興を買ったらしい。専門官によるとウイルス感染は稀なテーマであり、学習指導要領でも重視されていないのが理由だった。そのため、私のウイルスに関する記述はボツにされた。
その後、私が関与した日本学術会議の「高等学校の生物教育における重要語の選定」においても「妊娠」や「避妊」、「胎盤」、「羊水」といった「ヒトの生物学」に関する用語は検討対象になかった。学習指導要領にないためだ。元をたどれば、「ヒトの生物学」の重要性が学習指導要領立案者には認識されていないためだ。学習指導要領が上位法令となり、そこに書かれていないが生徒の将来の「安全、安心」を支えるであろう「ヒトの生物学」教育は排除される。これでは大半の生徒には何のために生物を学ぶのか分からなくなる。
しかし、日本も昔からヒトが排除されていたわけではない。健康や衛生は昭和30年代までは高校生物の教科書に含まれていた。それがいつの間にか医学薬学系の教科書執筆者はいなくなり、基礎生物学系のみになってしまった。日本人の健康や感染に関するリテラシーの欠如が学習指導要領の偏りにあるとしたら、これは「人災」レベルの由々しき事態といえよう。
私は国際生物学オリンピックで知り合ったオランダの委員からオランダの学校で現在、13歳から14歳向けの教科書として使われているUitgeverij Malmberg社刊、Your Biology(2017)を入手した。この教科書を手にした時、私はこれを日本の中高生にも読ませたい、読ませなければいけないという衝動にかられた。
旧知の細胞生物学者である広島大学の岡本哲治名誉教授に見せたところ、彼からも大きな賛同を得て、このYour Biologyの翻訳書出版計画がスタートした。まるで300年前の『ターヘル・アナトミア』を翻訳した『解体新書』を想わせる計画だった。
北里柴三郎による破傷風菌毒素と抗毒素(抗体)の発見を私の授業で取り上げた。受講生の何人かは北里柴三郎の名前は日本史で習ったが、その業績は全く知らなかったとレポートに書いてきた。この学生は高校で生物を選択したが、感染症やその治療、予防法については何も習わなかったそうだ。
ハエやウニ、カエルの受精と発生については高校生物で習うがヒトの発生、妊娠と避妊、性感染症とその予防については全く習わない。日本以外の国の高校生物教科書はこれらヒトの健康に最大の力点を置いているのとは正反対だ。巻末の「さくいん」をご覧いただきたい。下線がある語は日本の高校生物や保健では学ばないが、オランダでは13-14歳が学ぶ本書所収の用語である。
10年ほど前、某大学のそうそうたる生物学教授たちが「最近の学生は役に立つ学問をしたいなどと言って困る」と話していた。「宇宙の真理に迫るのが学問で、人間の生活に役立つことを目的にするのは下道の考え」だそうだ。
残念ながら、そんな教授たちが良しとするのが今の学習指導要領なのだろう。このコロナ禍の中、生活者の視点からもう一度、日本の教育を見直す必要がある。このYour Biologyが発するメッセージに耳を傾けたい。
【『14歳からの生物学──学校では教えてくれない〈ヒト〉の科学』(白水社)所収「はしがき」より】