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人間は「物語る動物」です 千野帽子『人はなぜ物語を求めるのか』より

記事:筑摩書房

original image: nadezhda1906 / stock.adobe.com
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 あなたは「物語る動物」です。僕も「物語る動物」です。「物語る動物」どうし、なかよくしましょう。なかよくする近道は、自分が「物語る動物」であることを、おたがい自覚することです。僕は千野帽子といいます。僕は日本の地方都市に生まれ、日本の大学と外国の大学院を出て、勤め人をしているときに、こうやって文章を書く仕事もはじめました。長いこと京都に住んでいましたが、二年半前に神戸近郊に引っ越しました。どうかよろしくお願いします。

できごとと時間とストーリー

 いま、自己紹介で経歴を述べるとき、僕はできごとを時間順に並べました(じつは就職のほうが外国の大学院の修了より先なのですが、順番が入れ替わってます)。もちろん「いまは神戸に住んでるけど、二年半前までは京都にいたよ」というふうに、時間を逆にさかのぼることもできます。いずれにしても、「できごと」を語っています。できごとを語るということは、「できごとの前」「できごとのあと」という前後関係ができるということです。つまり、「時間の流れ」のなかで世界を把握する、ということになります。というより、「できごと」という把握と「時間」という概念・感覚は別個に存在するのではなく、時間を前提としなければできごとという把握はないし、できごとという捉えかたがあるからこそ時間というものを想定することができるのです。


僕は自分の人生を、

地方都市に出生
  ↓
日本の大学を卒業
  ↓
外国の大学院を修了
  ↓
勤め人になる
  ↓
ライター仕事を始める
  ↓
京都から神戸近郊に転居

 という「ストーリー」として把握している、ということですね。要するに僕は「自分は何者か?」ということを、ストーリーの形で把握しているわけです。

ストーリーと物語とナレーション

 さっき僕は、つぎのような「文」を作りましたね。「日本の地方都市に生まれ、日本の大学と外国の大学院を出て、勤め人をしているときに、こうやって文章を書く仕事もはじめました。長いこと京都に住んでいましたが、二年半前に神戸近郊に引っ越しました」ストーリーを表現する「文」には、物語(ナラテイヴ)という性格があります。物語とは、ストーリーを(口頭で、手話で、文字で)語る言葉の集まりです。僕の自己紹介はひとつの物語なのです。ほんとうは言葉だけではなく、いろんな要素がストーリーを伝えるのに使われるのですが、もっとも基本的で大事な役割を果たすのは言葉だと、本書では考えます。

 ニュースを読むアナウンサーの言葉、落語を話す落語家の言葉、新聞記事や小説の字面は、いずれもストーリーを伝えているという意味で、物語なのです。なお、文を作るとか、口頭で言うとかいったこと一般を「発話」と言います。その発話内容に「ストーリー」があるときは、その発話は語り(ナレーシヨン)という性格を帯びます。履歴書の学歴・職歴欄を書くときには、前記の「↓」でつながった「ストーリー」を頭のなかで完全に組み立ててから「文」を書きますね。

 いっぽう、さっきあなたが読んだ文章のばあいはそうではなく、僕が「文」を書いていくと同時に、頭のなかで「ストーリー」ができあがっていきました。自分の人生の記憶のなかから、なにをチョイスするかを、ほぼ即興で決めたわけです(就職と大学院修了の順番が入れ替わってるのは、そのせいかもしれません)。以上のように、ストーリーと、その発現形である「物語」との関係には、

(a)頭のなかにあらかじめできあがったストーリーを言葉にする。
(b)言葉を発しながらストーリーを手探りで作っていく。

 このふたつの極があります。厳密に言えば語りは(b)の要素が強い作業だといえます。人は多くのばあい、つまり台本を丸暗記して一字一句そのとおりに暗誦するとき以外は、(b)のやりかたで発話しています。じっさいに起こっていることは、頭のなかにぼんやりと方向づけられたストーリーの部品を、言葉にしながら発見・調整するうちに、最終的には細部が決まっていく、ということなのです。

 このことを、フランスの哲学者アランが、つぎのように言っています。

 言葉を発すれば、私自身の存在を他人に説き明かすのと同じように、私自身にも説き明かすことになる。言ったことのなかで、他人の姿が私の目に明らかになるのと同じように、私自身の姿も私の目に明らかになる(『感情 情念 表徴』六六、拙訳)

人間は物語る動物である

 ここまで見てきたように、人は、「自分は何者か?」というだいじなことを言おうとすると、「物語」の形で言わざるを得ません。

 そして

「自分の家族は何者か?」
「自分が勤めている会社はどういうものか?」
「自分が住んでいる国は?」
「自分が生きているこの世界は?」

 といったことについても、「ストーリー」の形で理解しようとします。人間は、時間的前後関係のなかで世界を把握するという点で、「ストーリーの動物」です。そして、そのストーリーを表現するフォーマット=物語に、人間の脳は飛びついてしまいます。人が語っているのを聞くときも、自分が語る番が回ってきたときも。

 人間はしんそこ「物語る動物」なのです。認知心理学に多大な影響を与えたジェローム・S・ブルーナーは、こう言っています。〈人のコミュニケーションにおいて、もっとも身近にあり、もっとも力強い談話形式の一つが物語だ〉。〈物語構造は、言語による表現が可能となる前の、社会的実行行為の中に本来備わっているほどである〉(『意味の復権フォークサイコロジーに向けて』岡本夏木他訳、ミネルヴァ書房)。

 またカナダ出身の実験心理学者スティーヴン・ピンカーは〈二歳児はごっこ遊びの開始とともに、生涯つづく物語の創作と理解をはじめる〉(『人間の本性を考える』山下篤子訳、NHKブックス)と書いています。ブルーナーもピンカーも、〈物語〉という語を、本書で言う〈ストーリー〉の意味で使っています。本書では、ストーリーというものを、世界を時間と個別性のなかで理解するための枠組、としてとらえています。

 人間には「ストーリー」のほかにも世界を把握する枠組を持っています。たとえば「アナロジー」(類推)。でも、それについて話すと脱線するので、この本ではストーリーに集中します!

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