現代美術と社会との関係、通史としてたどる『現代美術史』 助成で後押しされ、若手研究者が出版
記事:じんぶん堂企画室
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――こんなに若い研究者が新書を、そして、「通史」を書かれたということは、私を含め多くの若手研究者が感化されたと思います。どのような経緯でこの本を書かれたのですか。
ロンドン芸術大学の博士課程在籍時、サントリー文化財団「若手研究者のためのチャレンジ研究助成」を受けていました。その中間発表会後の懇親会で出版社の方々とお話しする機会があり、中公新書の編集者の方と出会ったのがきっかけです。
――助成の対象となった研究はどんな内容だったのでしょうか?
東アジアのナショナリズムが肥大化し、国同士の敵意が大きくなっていく中で、美術がどういう可能性を持っているかを歴史―社会的な観点から考察するものです。1990年代以降、日本では歴史教科書問題や「慰安婦」問題が取り上げられるようになりました。それ以降、特に植民地に関わる問題が年々大きくなっていく中で、現代美術の社会的実践――ソーシャリーエンゲージドアート(以下SEA)――が現在までどのように発展してきたかを調べました。
SEAという芸術潮流を東アジアの植民地の歴史と関連させて考えることで、芸術と政治社会的状況の相互関係を語る別の形の言説、枠組みを構築することが出来るのではないかと考えました。
――「東アジアのSEA」に興味を持つに至ったきっかけはなんですか?
イギリスで2年間の修士課程を終え、一旦日本に戻ってきて、博士課程の研究内容をどうしようか悩んでいるとき、たまたま六本木で在特会(在日特権を許さない市民の会)の大きなデモに遭遇しました。
博士課程では、自分のアイデンティティーを位置づけられる問題を扱いたいと思っていました。そのときに在特会のデモに何度も遭遇して「これはおかしいな」と。芸術がそうした問題に取り組む一つの手段になるのだとしたら、その可能性について深く考えてみたいと思いました。イギリス留学中、自分もマイノリティとして生活していたことも、そのことに思い至るきっかけの一つだったかもしれません。
――若手研究者にとって、助成を受けられるかどうかは死活問題です。助成を受けた経緯を教えてください。
サントリー文化財団自体はよく知られていて、ホームページなどを通じて「若手研究者のためのチャレンジ研究助成」の情報はすぐに見つかりました。
この助成はチャレンジングな研究を支援するという特徴があります。僕の博士研究はプラクティスベースの研究で、作品制作のプロセスを博士論文の半分に費やすものなので、アカデミックな助成だとなかなか通らないと思います。そうした意味で、サントリー文化財団の助成には様々な理由で「助成を受けにくい研究」の可能性を掬い上げる姿勢を感じました。
イノベイティブな取り組みは、その時代でほとんどなされていないこと、理解されてないことが多いですよね。自分の研究も理解されないことが多かったですが、助成という形で認められるのはとても嬉しかったです。経済面だけではなく精神面でも支えられました。
助成を受けた仲間にはいろんな分野の人がいて、そういう人たちとコミュニケーションが取れるのも大きなアドバンテージでした。今もつながりが残っています。
――美術史の本というと「西洋」「日本」「東洋」と地域別に分かれているのが常です。山本さんはこの本で「欧米」「日本」を一つの本で概観することにプラスして「トランスナショナル」というテーマも入れています。この点が『現代美術史』の画期的なところと言えるのではないかと。
「トランスナショナル」を扱っている第5章、第6章は、それまでの美術史の文法に則りながら欧米と日本それぞれの「現代美術」を記述している第4章までとは一変して、自分の研究についての記述となっています。
地域別に語られる美術史に関して、批判的な見方をしている部分もあります。例えば、東アジア美術を学ぶとすると、しばしば日本、朝鮮、中国と、国や地域の「束」で語られてしまう。このことに不満がありました。それで、「束」から漏れてしまっている、「国境を越えて移動するダイナミズム」=「トランスナショナル」について書きたいと思いました。
――はじめてこの本を見かけたとき、『現代美術史』というタイトルを二度見してしまいました。「現代」の歴史を編むということが果たして可能なのだろうか、と。このタイトルにした理由を教えてください
たしかに僕も「現代を歴史として編む」ことに違和感があります。僕の考えではそもそも「現代=contemporary」は存在しません。「今」は次の瞬間には歴史化されるわけです。でも、「今」まさに起きていることをトレースしながら記述していくというチャレンジングな感覚を表すには、このタイトルがぴったりだと考えました。
ちなみに、サブタイトルの「欧米、日本、トランスナショナル」には編集者の方の意向を盛り込んでいます。当初、僕は「前衛芸術からソーシャリーエンゲージドアートへ」というサブタイトルを想定していました。でも編集者の方が、「『トランスナショナル』を入れ込めば、現代美術には興味がないが、『トランスナショナル』の事象自体に興味を持つ人が手にとってくれるかもしれない」と言ってくれて、なるほど、と。おかげで多くの人に取ってもらえるようなものになったと思います。
――執筆の際、この本のターゲットはどういう人達を想定していましたか?
「美術にちょっと興味はあるんだけど、よくわからないからいいや」と思っている人ですね。文体を丁寧「です・ます」口調にしているのもその理由からです。やはり現代美術のハードルを下げたかったし、読者に語りかけたいと思ったので。
現代美術を見れば、多くの人が面白いと感じると思います。でもこの現代美術の閉鎖性は未だに解消されていない。これは、現代美術に携わっている内側の人間に「美術を理解するためには感性が優れてないとだめだ」という考え方が蔓延しているからだと思うんですね。たしかに美術を鑑賞する際に感性は必要なものだけど、その感性は基本的に多くの人に共有されているものだし、それは多様であるべきだと信じています。
芸術というのは自律性があり、特殊なフィールドだと思われていますが、『現代美術史』で書こうとしていたのは、現代美術というのはすごく社会政治的な文脈と関係があるものだということです。
――山本さんにとっての人文書の魅力をお聞かせください。
人文書を読むことは法律などの実学とは違ってわかりやすい実用性があるわけではないけど、人々に与えてきたインパクトはすごいものがあると思います。芸術と人文書を「文化」として括るとして、文化は長期的なスパンで人々に影響を与え続けると思います。例えば、ドストエフスキーやトルストイが小説を上梓した時代のロシアでは、文字を読める人がほとんどいなかったそうです(佐々木中『切りとれ、あの祈る手を 〈本〉と〈革命〉をめぐる五つの夜話』)。つまり、彼らの営みを同時代的に理解していた人はほとんどいなかった。しかし、彼らの文学が現代に至るまで与えてきた影響は計り知れない。これは人文書にも言えることで、間接的な影響はどこにもたらされるかわからないというところに、人文書の面白さがあると思います。
「なんかよくわからないけど大切なことであろう」と感じる直感を人文書の読み手として僕はとても大切にしています。先程の感性の話に戻りますが、人文書も人々の感性に働きかけて何かしらのアクションを起こさせる力があると思います。
――人文書は紙の本で読まれますか?
そうですね。というか、ほとんど紙の本しか読みません。デジタルデータのほうが整理しやすいのは間違いないのですが、「偶然」が生じる紙の本が好きです。たまたま開いたページからインスパイアを受けたり、あえてカテゴリで分けずにばらばらに収納したり。そうすると、たまたま並んだ背表紙からアイデアが生まれることがあります。
山本さんにおすすめの本を尋ねると、「他者を理解する」というキーワードにもとづいて、3冊を紹介してくれた。
① 温又柔著『台湾生まれ 日本語育ち』 (白水社)
中国語(たまに台湾語)を話す両親のもとにうまれ、主に日本語で思考・執筆する作者のエッセイ集です。民族と言語が一致するのが当たり前だというナショナリズム的前提がありますが、その前提をユーモラスに覆してくれる本です。新装版の表紙のAKI INOMATAさんの作品《やどかりに『やど』をわたしてみる》が印象的です。
② ソニア・リャン著『コリアン・ディアスポラ 在日朝鮮人とアイデンティティ』(明石書店)
この本を読むと、差別や排他的ナショナリズムの問題は善意だけでは解決できず、歴史的知識の獲得が不可欠であることを知ります。真の意味で多文化共生社会を築くための一助となる本だと思います。
③ 瀬尾夏美著『あわいゆくころ──陸前高田、震災後を生きる』(晶文社)
現代美術作家として活動する作者が、3.11後に陸前高田に住み、震災を経験した人たちとの関わりの中から言葉を紡ぎ出しています。アカデミックなものに翻訳しきれない言葉ってあると思っていて、この本は論理的に記述できないものを逡巡しつつ書いていくことの大切さについて考えさせられます。