コミュニティぎらいが『コミュニティの幸福論』を読む――富永京子さん・評
記事:明石書店
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実は最近引っ越した。元いたところの名前は伏せるが、大都市の隣県にあるベッドタウンで、いわゆる新興住宅地である。数年間をなんとか耐え凌いだが、いよいよストレスで耳が聞こえなくなり、最後の半年は用務を増やし出張を重ねた。海外への滞在が決まったことでその土地からはめでたく?解放され、帰国後すぐに転居した。いい年して「住めば都」すら実現できない自分の幼稚さが腹立たしいが、それでも適応出来ないものは仕方がない。
地域が嫌で出張を増やし、週の半分をホテルで過ごした自分にとって、「コミュニティ」という言葉ほど抵抗を感じるものはない。普段から通うパン屋さんに顔を覚えられるのすら嫌だったのに、まして助け合いで幸福感を高めるなどハードルが高すぎる。
この本は、「コミュニティで人と人とが幸せに生きるには?」ということを追求し、考えていくことを目的とした試みだ。「コミュニティ」は「人と人とのあつまりや、その関係性・空間」と定義しており、その定義が示すように語られる中身はかなり多様である。事実、本書で取り上げられる「コミュニティ」は、おそらく多くの人が想像するような地縁、血縁といったものから、社会的企業やインターネット空間、さらにはサウナまでと幅広い。
文中で多用される「コミュニティ」という言葉に、正直なところ研究者としてかすかな引っ掛かりを覚えなかったわけではない。あれもコミュニティ、これもコミュニティ、と名付けていく筆者の姿勢は、「すべてはコミュニティである」という繰り返しのブラックホールに人々を引きずり込みかねない。私のような「コミュニティぎらい」からすれば、それ自体が幸せからやや遠い試みのようにも感じてしまう。それが一読した感想だった。
だが、読みすすめるうちに、この本が論じたいのは「コミュニティ」そのものではないと気づく。筆者が主に描くのは、コミュニティという場そのものでなく、その場を通して見える、他者との関わりをためらう人々の姿だ。
他人を慮って過去を詮索しないがゆえに、親密なのに助け合えない貧困地域の人々。被災してボランティアの人々から援助を受ける居心地の悪さに耐えきれず、愛想悪く振る舞うことで尊厳を保とうとする人。自身も障害者なのに、いざ障害当事者としてラベリングされると戸惑いを感じる人。
この本に出てくる人々が抱えるためらいや強がり、おびえや気まずさに共感する読者は、おそらく数多くいるだろう。筆者はこうした彼らの振る舞いを「当事者性」や「贈与」といった概念によって分析することで、他者との関わりに臆病なのはあなただけじゃない、私たちが共通に抱える普遍的な感情や思考なのだ、と社会科学の分析枠組とともに語り続ける。それは、人との関わりを失おうとしている私たちをもう一度他者との助け合いに繋ぎ止めようとする、この本を通じた筆者なりのコミュニティ形成の試みなのではないかとも思う。
しかし、現代において他者と関わるということの前には、「傷」や「間違い」という高いハードルが存在する。
私が元いた地域で経験した印象的なエピソードがひとつある。やや高額のお金を引き出すために銀行の支店に伺った際、銀行の案内係の方に「旦那様の口座ですか?」と訊かれたことだ。日中銀行に向かう身なりがいいわけでもない女性に、そこまで高額の預金があるとも思えない。そう考えると、配偶者を持つ専業主婦だと考えるのは、しごく当然のことだろう。私は仕事をしていて、自分の口座からお金をおろすつもりでいたので、この想定は間違いである。しかし間違いであることそのものは重要ではなく、こうした「他者の事情に踏み込む言動」になんとも言えない抵抗感を覚えた。
自分自身も、他者の事情に踏み込む言動をかなり避けている。例えば、周りの若手研究者を金銭的に支援しようと簡単な業務を紹介しようとしても、彼らの事情に踏み込む勇気がないため、結果として通り一遍の提案しかできない。私の事情を読み間違った銀行の案内係の方のように、私もまた彼らの事情を読み間違い、場合によっては傷つけるかもしれない。それが怖いのだ。
おそらく、この本に出てくる臆病な人々が抱えているためらいやおびえも、全く異なる他者の事情へと踏み込む、あるいは踏み込まれることで生じる傷つきや間違いに起因している。さらに言えば、それは同じ場をともにしつつも個々人の出自や背景がまるで異なる、個人化の帰結とも言える。
全くばらばらになってしまった私たちが互いの事情に踏み込んで助け合うことはいかにも難しそうに見える。しかし、例えば「つながり」や「イベント」と違って、コミュニティは継続的に存在し、同じ人と繰り返し顔を合わせる必要がある空間だ。だからこそ、一度の傷つきや過ちで人との関わりが終わるわけではなく、やり直しが許されている空間とも考えられる。
今度は逃げることなく、他人の事情に踏み込んで手を差し伸べてみようか。間違えたり、傷つけたりしても、謝ったり反省したりしながら先に進んでいけばよい。そう思えるのはこの本が、先人たちのコミュニティ形成における試行錯誤の記録でもあるからだろう。