フェミニズムの存在意義を問い直す 『メディア文化とジェンダーの政治学――第三波フェミニズムの視点から』
記事:世界思想社
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本書に『メディア文化とジェンダーの政治学――第三波フェミニズムの視点から』というタイトルをつけるにいたったのは、自分自身や同世代の女性たちをとりまく次のような状況によっている。
まず、一九七〇年代の女性解放運動の洗礼を受けて、日本で一九八六年に男女雇用機会均等法が施行されたことが、自分の学生時代と重なっていたこと。それ以来、「男の人たちと同じように働けるのだから、頑張って働きなさい」と家庭でも学校でも言われつづけてきたのが、ちょうど団塊ジュニア(一九七一~七四年生まれ)以後の世代にあたる女性たちである。しかしバブル経済が破綻すると、一九九三年以降の就職戦線は一気に冬の時代を迎え、新卒女子の多くが、学識や能力に見あった職に就くことができないまま社会に出ていくこととなった。
来るべき日のために培ってきた学識や能力を発揮する適切な場所が与えられないまま、彼女たちの十数年は過ぎていった。その結果、一九九〇年代半ばから続く不況と、戦後社会の構造疲弊に端を発する社会状況の変化によって、「仕事」を通じた自己実現を目指せるのは、一部のエリート女性にしか許されない目標となってしまった。では、その目標から押しだされてしまったエネルギーや奔流は、その後、どのような方向に拡散していったのだろうか。この問いが、まずは本書の底流となっている。
別のエピソードも紹介しておきたい。この話は、わたしがかつて長いこと非常勤講師をしていたある大学の学生から聞かされた話である。
「あなたたちは楽でいいわね、って言われたんです」
と、しばしばわたしのもとに質問に来る元気な女子学生が、授業の後に話しかけてきた。くわしく聞くと、それはジェンダー関係の授業で、講義を受けていた女子学生たちにたいして歴戦のフェミニスト教員が放った台詞だという。
その女性教員は、かつて女性たちが大変な思いをして社会的なポジションを勝ち取ってきたのに比べると、最近の女子学生たちはなにもしなくても職に就けるのがあたりまえとなり、その結果、ラディカルではない生き様になっていると非難したのだという。バブル崩壊後の就職氷河期と呼ばれていた時期の出来事である。
「どうしてそんなこと言えるんだろう、って思って」
と、その女子学生は不満そうに唇を尖らせていた。たしかに、こんにちの女子学生や若い世代の女性たちは、わたし自身も含めて、あまりにも一九七〇年代以降の女性解放運動の歴史について知らずにいる。そして、知らないにもかかわらず、女性解放運動のおかげで手にすることのできるようになった諸権利をあたりまえのように享受しているのも事実である。だから、過去の運動の栄光について語り継いでいくべきだと、わたしも日々、その必要性を痛感している。しかし、その話を聞いたときに考えたのは、女性たちの問題を進化論的な視点から語るという態度は、批判しなければならないということだった。
フェミニズム以後の時代を生きるわたしたちは、一九七〇年代以降にラディカル・フェミニズム(第二波フェミニズム)の運動が獲得してきたさまざまな権利をあまりにもやすやすと享受できているかもしれないが、同時にその負債も抱えこまされているのではないかと感じることもある。それは、ラディカル・フェミニズムが作りあげてきた強固な女性イメージや生き方モデルが、こんにちのようにネオリベラリズムの旋風が吹き荒れた挙句に深刻な不況をもたらし、社会的な支援や福祉を崩壊させつつある時代と齟齬をきたしている点に、もっとも顕著に現れているように感じられる。そしてまた、ラディカル・フェミニズムによって獲得された女性の社会進出の帰結のひとつが、社会全体をラディカルに変えていくのではなく、むしろ「保守的で、社会的弱者を平然と切り捨てるような首相を中心に据えた内閣を生む」、「防衛省のトップに女性が立つ」といった状況にいたったという点に、わたしたちは違和感を抱かざるをえない。
そうした帰結にたいする違和感や反感は、英語圏でよく言われている、「I'm not a feminist, but...(わたしはフェミニストじゃないです。だけど……)」という言葉に的確に表れている。このフレーズは、フェミニズムの成果は受けいれつつも、そのイデオロギーと同等視されることを避け、フェミニズムにたいしてある程度批判的な意識を持ち、距離を取っていることを暗示している。こうした感性は、日本の若い女性たちのあいだで広く共有されているようだ。さまざまな文化領域で活動する若い女性たちと過去一〇年にわたって対話していくなかで、わたしはそのことに気づかされたし、また、わたし自身もまさに同じように感じてきた。
一九九一年に、つねに男子学生や男性教員が物事の中心を占めていた大学に入学したことで、いくたびも細かな性差別的発言や、保守的な性別役割分業に直面させられてきた。そのたびに、なにか変だぞと感じはしたものの、目の前に差しだされた当時の「フェミニズム」のイメージや表象、それから感情的にすぎる(と学生時代のわたしには思われた)フェミニズム関係の論文に共感することはなかなか難しく、自分自身のおかれている状況を把握したり転覆したりするための有効な手段として、その言語や理論を手にしようと考えるにはいたらなかった。
それらの理論や研究にためらいなく触れることができるようになったのは、「フェミニズム」という言葉が「ジェンダー」という耳慣れない単語に置き換えられていくようになった一九九五年前後のことである。同世代の女子学生たちの多くが多少なりとも自分と似たような経験をしてきたと知るのは、それからさらに数年後のことになる。女性という性別に基づいて差別されるのは許せない、でも、それに対抗する唯一の手段であるとされていたラディカル・フェミニズムにも違和感を覚えてしまう――
これらのエピソードから導きだされるのは、「女性たちの選択肢と自由は広がったにもかかわらず、それは不平等にしか配分されていないのではないか」という疑問である。さらに、選択肢と自由が広がると同時に、それらを享受している若い女性たちのなかには、もはやラディカル・フェミニズムが主張してきたことがらをあらためて掲げる必要を感じていない者も出てきているという実感である。
少女文化に関して論文を書くためにインタヴューを行った際、ある女性インフォーマントがこんなことを呟やいていた。
「いまの時代、大変なのは女の子だけじゃないですから」
このような時代認識は正しいようにも思える。「男社会」対「女社会」というわかりやすい敵対性は鳴りを潜め、現代社会にはびこるのはより複雑化した敵対性と分断の軸であるのかもしれない。では、「男社会」に対抗するための理論と実践の弾薬庫であったフェミニズムは、もはやその役目を終えてしまったのか。こんにちの社会において、その存在意義は消失してしまったのだろうか。それはすでに必要のない古びた武器にすぎないのか、もしくは現代の女性たちには従来の権利要請とは別の戦略が出現しつつあって、フェミニズムの諸理論がそうした戦略について語れていないだけなのだろうか。
本書で考察していきたいのは、一九九〇年代頃から「ポストフェミニズム」と呼ばれるようになった、現在の女性たちがおかれている社会状況である。ポスト福祉国家の、ポストモダンの、ポスト消費社会の「ポスト」という接頭語とともに表現されるさまざまな言葉が示すような、より流動性の高まったこんにちの社会において、女性たちが生きているその生のあり方について、とくにメディア文化論やカルチュラル・スタディーズの視点から観察し、フェミニズムの現代的な意義と必要性について検討していくのが本書の目的である。したがって本書にもし役割があるとするなら、「フェミニズムの目標は、こんにちにおいても有効であるのか? もし有効でないとするなら、どのようにリニューアルしていくのがいいのか?」といった議論を提起することにあるかもしれない。