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フランスで考えた医療の場でのコミュニケーション ―― フランス在住・日本人指圧施療師の歩み

記事:春秋社

身体をバラバラに? 現代医学のジレンマ

 西洋文明の世界観は、しばしば「分析的」だといわれる。全体を部分にわけ、ひとつひとつの部分を調べあげ、それらを再びつなぎ合わせることで、全体の理解を得る。そして、物事に対するそのような態度が「科学 science」をもたらしたのだという言説もまた、いたるところで目にする定番のトポスだろう。著者は、そのような西洋文明の中心地たるフランス・パリで指圧施療師として活躍するなかで、ふと素朴な疑問に遭遇することとなる。 

 私たちは、西洋近代医学以前は蒙昧な時代であって、医学らしい医学は存在しなかったと思っている。もちろん、とんでもない治療が行われることもあった。しかし、人類は長いこと経験や観察に基づいて健康を考えてきたのであって、身体をバラバラに分断して「心臓外科」とか「泌尿外科」とかで区分けし、化学薬品に頼るいまの医学はむしろ特異な「医学」の形だと言えるのかもしれない。―― p.89

  私たちが身体に不調を感じたとき、まず考えるのは「どの病院にかかればよいのか」というものだろう。つまり、何科にかかればよいか、ということである。ここにはすでに、著者のいう「身体をバラバラに分断して」症状をとらえるという前提が垣間みえている。

 もちろん、マクロにみたときの "医学の進歩" と、ミクロにみたときの"個別分野の専門分化" は切り離せないものであって、これ自体が非難されるべきものだということはできない。

 しかしながら、頭痛ひとつをとっても、内科、脳神経科、心療内科など、私たちがおもむく候補地は多々あり、各分野の医者はそのつど患者の主訴から原因を推測し、複雑な化学式で記述される薬を処方する。そして、その薬に効果があったかどうかという情報から帰納的に真の病因へと迫っていく。ここには症状を一方的に伝える患者と、それにもとづき薬を一方的に処方する医者という関係性のみが存在し、〈話す・聴く〉という相互的な関係性がうまれることはマレだ。自分の健康は「医者にゆだねられている」状態であって、自分の健康を自分で知り、守っていくという発想は薄いものといわざるをえないだろう。

「話すこと・聴くこと」の復権

 自分が自分の身体について感じることは、自分しか語りえないものだ。そして、聴く側としても、先述の現代医学のような文脈で「主訴を拾いあげる」ような態度では、何か本質的なものをつかみ損ねるようなことがありえるのではないか。そのような危惧は本書を貫く論点のひとつでもある。

 その点で、次の描写は興味深い。著者が医者と同等の立場で〈話す・聴く〉の関係性を構築できたことのメリットである。

 私がかかっていた B 医師は、それでなくてもどこかほんわかした雰囲気のある先生で、理詰め思考で西洋医学一辺倒の夫は、あまり信用していなかった。だが、この B 医師のおかげで、私は自分の目で症状を観察し、からだ全体が発している信号に耳傾ける姿勢を獲得できたと思う。(中略)医者の側がこうしろ、ああしろと、高飛車に命じるのではなく、「これはこういうことだと思うからこうしてみましょうか」と、親といっしょになって「症状の語るもの」を探ってくれる姿勢もありがたかった。(中略)症状というものはからだが発するメッセージであり、謎解きであり、医者とは本来は探偵のような職業だ。その謎解きに親も参加させてくれる。B 医師の姿勢を頼りないと受け止める人もいるかもしれないが、私はかえって鍛えられ、症状に対する感覚が研ぎ澄まされた気がする。―― P.111-3

 B 医師はホメオパシー療法など非主流の医学に対する造詣が深い人だという。もちろん、そのような療法の科学的効果が統計的に実証されていないことは著者も十分承知のことだ。それよりも著者が伝えたいことは、その場では医者と患者がおたがいに話し、聴き、自分の健康について深く知り、また従来の西洋医学と付き合う際の適切な距離を学ぶ機会となったという一点にこめられている。このことは、ここ日本においても大いに通用する話だろう。  

日本人が「語る」ために

 散々いわれているとおり、日本人はまわりに同調するのが得意だ。全体の「和」というものを大切にするあまり、自分たちの確固たる主張をおたがいにすりあわせていくコミュニケーション・スタイルというのが苦手なようである。 

 和の雰囲気を保とうとする相互作用の中では、当然自分(自我と言い換えてもいい)を消そうとする方向へ力が作用する。21世紀の今もなお、日本社会には、ということは私たちひとりひとりを支配する倫理作法には、和の雰囲気を壊すことへの忌避感、つまり他者を前に、他者とはちがう自分を主張することの困難さが根強く残っている。私たちはこのことをもっと認識したほうがいい。自分の健康を守らなければならない、といった切羽詰まった場面で、対話することへの躊躇が裏目に出ることもあるからだ。―― p.56 

 日本人が自分自身の健康を医者にゆだねすぎず、彼らと〈話す・聴く〉の関係性を築くためには、自分の身体が感じていることを「主張する」強さが必要であろう。これは内と外とを区別する日本的な間合いのとりかたが絡む水平方向の問題である。西洋医学における医者はカウンセラーではありえず、医者は自己の専門分野というフィルターを通じて患者の声を聴く。そこで聴き漏らされる患者の悲痛な声は少なくないだろう。その意味で、これは日本の医者にとっても示唆的な問題提起である。

 そして、患者も、医者という専門知の保持者を「万能の権威」と仰ぎすぎることなく、対等な2人称的当事者からの助言として「聴く」こと。これは東洋的な師弟関係にも通じる、垂直方向の問題であるが、私たちが自分の健康を自分のものとして取り戻すためには、この水平・垂直の双方向について、遠く異国の地フランスの文化をきっかけに、いちど見つめなおしてみてもよいのではないか。

 本書は、私たちが自分自身の身体の声を感じ、表現し、聴いてもらう、そのようなケアのありかたをめぐる多くの示唆的なエピソードを提供してくれる。本記事では紹介できなかったが、フランスでの夫婦関係や子育て、東洋由来のセラピー事情など、ほかにも興味深い話題も盛りだくさんだ。それらはみな、在仏35年の著者が肌身で感じてきた一女性としての歩みであり、それだけに、生活者としての魅力的な迫真さをもって読者をひきこむことだろう。

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