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哲学の祖ソクラテスの実像に迫る 『ソクラテスの弁明』と福音書のイエスの思わぬ関係

記事:春秋社

「ソクラテスの死」ダヴィッド作 (出典: Wikimedia Commons, public domain)
「ソクラテスの死」ダヴィッド作 (出典: Wikimedia Commons, public domain)

プラトンのソクラテス捏造疑惑

 ソクラテスといえば、本人の著作がなく、その思想や人となりを知るには他の誰かが書き残したものに頼るしかないことはよく知られている。とくにソクラテスの弟子であったプラトンはソクラテスが登場する対話篇をたくさん書いている。ところが、ソクラテス自身が述べたという次のような感想が伝えられている。

 《ソクラテスは、プラトンが『リュシス』を読み上げるのを聞いて、「おやおや、この若者はなんと多くの嘘偽りを私について語っていることだろう」と言った、ということである。というのも、この人(プラトン)は、ソクラテスが実際には語らなかったことを少なからず(その対話篇のなかに)書いていたからである。》(ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝』上、岩波文庫、p. 276)

 なんとソクラテス自身が、プラトンの著作のなかの自分はデタラメだと言ったというのである。この逸話の信憑性はわからないが、プラトンの描くソクラテスが、ソクラテスの実像とはかけ離れていると思われていた証左ではあるだろう。他にも同様の証言がある。

 《ソクラテスやティマイオスが発言者となっているときでさえも、プラトンは自分の説を述べているからである。》(同前、p. 287)

 したがって、プラトンの描くソクラテスは多くの場合、ソクラテスの実像を知るにはあまり役に立ちそうになく、本書『ソクラテスとイエス』(以下、本書)の著者・八木雄二氏も、『裸足のソクラテス』(春秋社)など、ソクラテスの実像を探究するこれまでの著作で大いに頼ってきたのは、クセノポンであった。クセノポンはもともと哲学者でなく軍人であり、自分の特別な思想を持たないので、ソクラテスの言行に脚色を加える理由がないうえに、「ソクラテスに憧れてその忠実な模倣者たろうとしていた」と評されるほどソクラテスに忠実であったとされるからである(『ギリシア哲学者列伝』上、p. 163)。

 しかしながら、プラトンの作品のなかにも、実際のソクラテスをかなり忠実に描いたと目される作品もある。それが『ソクラテスの弁明』である。本書は、『ソクラテスの弁明』を詳細に読み解くことで、ソクラテスの実像に迫ろうという試みなのだ。

『ソクラテスの弁明』の読み方

 とはいえ、『ソクラテスの弁明』はあまりにも有名な本である。それをあらためて読み解く必要がなぜあるのか。その理由の一端は、八木氏が本書で表明する『ソクラテスの弁明』のこれまでの読まれ方への不満に見ることができる。

 《……ソクラテスは宗教信仰からは禁欲的に身を引いて哲学していると思い込んでいるのではないかと、思い始めた。ソクラテスは哲学の旗手であり、哲学は本来、その歴史から見て、宗教と対立しているはずだから、という先入観である。しかし、素直に『ソクラテスの弁明』を訳して読んでいると、ソクラテスが神を直接的に感じているとしか思えないことばがあちこちに出てくるのである。そしてそのつもりになって読むと、彼の発言を支えている彼の精神は、むしろ一貫して神を身近に感じており、そう思えば、何の違和感もない発言なのである。》(本書、p. iv)

 ソクラテスがダイモーン(ないしダイモニオン)という神霊(のようなもの)の声を聞いていたという話は有名だが、実は、このことは、プラトンの他の対話篇にも、クセノポンの『ソクラテスの思い出』にも出てこない。『ソクラテスの弁明』に出てくるのである。

 これはソクラテスの裁判が「バシレイオスの宗教裁判所という、通常の裁判所とは異なるところでの裁判であったこと」(本書、p. 20)と関係があるだろう。ソクラテスが訴えられた理由は、「(アテナイ)市の認める神々を認めることなく、それとは異なる新たな神霊を導入して不正を犯している。また、若者たちを堕落させるという不正を犯している」(本書、pp. 19-20)ということであった。ソクラテスの弁明はこれらの嫌疑に対する弁明であり、これは宗教裁判なのだ。それなのに、これまでの研究者はソクラテスの発言の宗教的側面に十分な注意を払っていない。だから八木氏は、ソクラテスの発言の宗教的側面を最大限すくいあげるように『ソクラテスの弁明』を読んでみようというのである。

 もうひとつ、八木氏が注意している点がある。

 《近代の哲学者が自分の哲学を一冊の本に書くように、ソクラテスは頭の中で自分が話そうとしていることについてあらかじめよく整理したうえで話したのだろうと、思い込んでいたのだ。ところが虚心に返って読んでみると、ソクラテスはまったく本を書く構想力をもって話していないことが見えて来た。考えてみれば当たり前のことなのである。彼は裁判の席で、まさに話しているだけなのだ。》(本書、p. iii)

 だとすれば、『ソクラテスの弁明』を読むときは、背景に何か体系的な哲学などを想定せず、また、先に述べたように、プラトンの他の著作がソクラテスの実像をかえって歪めてしまうものならば、それらとの関連性などはむしろ考えず、虚心坦懐に、書かれているままを読みとるべきだということになる。

 そうして読み解いた結果がどうだったのか。それはぜひ本書で確認してほしい。本書は実に懇切丁寧に、わかりやすい言葉で書かれているし、そもそもプラトンの『ソクラテスの弁明』自体、他のプラトン作品と違って難しい専門用語や複雑な論理展開がない。そして、このことはソクラテス哲学の本質に関係すると八木氏は考える。

ソクラテスの言葉

 ソクラテスが生涯を通じて追求したのは「良く生きる」ことであった。「良く生きる」とは何か、を問うのが倫理学だとすれば、そのような倫理学の言葉とはどういうものだろうか。

 《人の生き方とは、具体的なものであり、……互いの「わたし」を抜きには語れないものだからである。……それゆえ倫理学は、自然科学や数学のように第三者的に論じることはできない。》(本書、p. 40)

 《「生きる」生活に関わる経験知は、「わたし」から切り離すことができない。つまり化学的知識のように普遍的知識の性格を本質的に持たない。それゆえ、科学や数学を教えるときと同じように、道徳を教えることはできない。》(本書、p. 101)

 そして専門用語とは、個別具体的な経験から抽象され、普遍性を持たされた第三者的な言葉である。そのような言葉で「良く生きる」ことを語ることはできない。だからソクラテスは、専門用語や専門的な論理を使わず、あくまで日常に密着した言葉で語ったのである。ちなみに、プラトンの弟子であったアリストテレスは、ソクラテスの言葉と専門用語大好きプラトンについて、次のような証言を残している。

 《アリスティッポスが、プラトンのものの言い方があまりに専門家じみていると思われたので、彼に向って次のように言ったのもそうである――「しかしながら、われわれの友は決してそんなふうには語らなかった」。もちろん友とはソクラテスのことである。》(アリストテレス『弁論術』岩波文庫、p. 275)

 『弁明』以外の作品におけるプラトンの捏造疑惑がますます深まるわけだが、この点について八木氏は次のように言っている。

 《プラトンは、おそらく他の哲学者(ピュタゴラス派)の見解に影響されて、……道徳に関して第三者的な対話(吟味)を実現しようとした。つまり美徳の第三者的「知識」を追求した。……そのために彼はソクラテスの哲学を見失った。》(本書、pp. 44-45)

政治と蜃気楼の正義

 そのようなわけで、八木氏によれば、ソクラテスの追求する「良く生きる」ことは個々人の生に密着しており、それゆえ正義や勇気や愛といった「徳」も個々具体的な生の場面においてしか意味を持たない。しかし、それでは政治はどうなるのか。政治は個々人の生ではなく、共同体や社会全体の幸福を考えるものではないだろうか。

 《子供の頃からソクラテスの心に現れ、彼が横道に逸れるのを制止して来たダイモーンは、市民権が生じる年齢になってからは、市政に自分から関わることを止めて来たという。》(本書、p. 324)

 ソクラテスは神霊の助言によって、積極的に政治に関わろうとはしなかったのである。これは八木氏が解読したソクラテスの思想からすれば当然のことでもある。ソクラテスにとって、個々具体的な生から離れた国家や社会の幸福や正義は、いわば「蜃気楼」にすぎない。しかも、さらに次のように言われる。

 《ソクラテスが見せる知恵は、個人が幸福になるために役立つだけで、その個人の行動が社会に共通の利益をもたらすかどうか約束されたものではない。》(本書、p. 341)

 つまり個人の正義や幸福と国家や社会の正義や幸福がまったく別物であるからには、個々人の具体的な生を正しくすれば、国家や社会もうまく治まるといった素朴な考えをとることもできないのである。

 一方、ソクラテスが生きたのは古代アテナイであり、アテナイは民主制の都市国家であった。八木氏はアテナイの民主制の確立者ペリクレスの言を引いて言う。

 《ペリクレスは、市民はだれでも国の経済を知り、政治に関心を持たなければならないと言っていた。これは今でも民主主義の原則(理想)であるだろう。》(本書、p. 324)

 ましてやソクラテスの裁判が行われたのは、アテナイがペロポネソス戦争での惨めな敗戦とその後の過酷な寡頭制を乗り越えて、これから民主制の国家として復興をめざそうという時期である。ソクラテスほどの人が「私は政治に関心がありません」と言ってすむものだろうか。しかもソクラテス(やソクラテスの追従者ともいうべき若者たち)は、国家や社会に貢献する(と思われている)政治家や職業人に問答をしかけて、さんざん恥をかかせているのである。

 《メレトスはそういう社会常識の立場(国を愛するものの立場)に立って、ソクラテスを起訴している。したがって、ソクラテスの言い分は現代に到るまで、大部分の人にとって「間違っている」と見られている。現代のギリシア哲学の研究者イシドア・F・ストーン、グレゴリー・ヴラストスと言った斯界の大御所も、ソクラテスの主張に腹を立てている。ソクラテスは社会を担うべき人間としての責任をないがしろにしておいて、それをまるまる「ダイモーンの仕業」だから仕方がない、と言っているというので、彼の良識を疑う人は現代でも少なくないのである。》(本書、p. 325)

 だからソクラテス裁判は、俗に言われるような、無知蒙昧な大衆が、偉大なるソクラテスの思想を理解しないまま死刑にしたというものではない。ソクラテスの考える正義とソクラテスを訴え非難する者たちの正義の正面衝突なのであり、ソクラテスの相手方にも十分な理があった。

 さらにいえば、プラトンは不当にもソクラテスを死刑にしたアテナイの民主制に絶望して思索を重ね、哲人政治の思想にたどりついたといわれる。確かにプラトンの動機としてはそのとおりかもしれない。しかし八木氏に言わせれば、プラトンの思想の本質は、むしろソクラテスを訴えた人々に近い。

 《ソクラテスを除く大部分の人間は、「蜃気楼の正義」を追求している。たとえばプラトンは、「正義とは何か」について、その真正の知識を彼の主著となった『国家』その他の複数の作品で追究している。プラトンがこのように繰り返し正義を語るのは、その「正義」のもとに国家が運営されるべきだからである。……しかしソクラテスは、十分に吟味して見れば、「蜃気楼の正義」が「真の正義」でないことは分かると言う。》(本書、pp. 325-326)

 《プラトンは、「哲学」とは、自分は知恵に達していないことを自覚したものが誠実に知恵を愛求することだ、と見ている。……しかしソクラテスによれば、これは「偽知恵」である。プラトンは一般に言われていることとは違って、ソクラテスから見れば誤った哲学を、ソクラテスの名で伝えているのである。》(本書、p. 327)

 だから本書は、ソクラテス裁判の記述を通じてソクラテスの真の思想を明らかにしようと試みると同時に、その対立者たちの主張もフェアなかたちで十分に明らかにするよう説明を尽くしている。それが本書のひとつの読みどころである。政治に関わることをよしとしないソクラテスと敵対者のあいだに存在する、ある種の根本的な思想的齟齬、それこそが著者の八木氏が示したいものであり、現代のわれわれにも突きつけられている課題だからである。

「迷える子羊」のたとえとソクラテス

 さて、そうしてソクラテスの実像を追求した八木氏は、ソクラテスがイエス・キリストと似ていることに思いがけず気づく。特に驚いたのは、八木氏が長年理解に苦しんできた福音書の「迷える子羊」の解釈であったという。

 《あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。》(ルカによる福音書15章4-7。新共同訳)

 ルカによる福音書では、そのあとに失くした貨幣の話が出てくるので、同じようなことかと思って読み飛ばしてしまいがちだが、考えてみれば確かに変な話である。八木氏は言う。

 《羊飼いは、一団の群れを狼の危険にさらしたまま、子羊を探しだすのであるから、社会常識からすれば、自分に課せられた「公共全体の危機」に対する義務のたんなる放棄、無責任で無神経な行為ではないかと疑われるだろう。》(本書、p. 330)

 初期のキリスト教徒のなかにもおかしいと思う者がいたのかもしれない。新約聖書外典のトマスによる福音書では、この話に微妙な改変が施されている。

 《イエスは言われた。「御国は一〇〇匹の羊を持っていた羊飼いに似ている。そのうちの一匹で最も大きな羊が迷い出た。彼はほかの九九匹の羊を残し、この一匹の羊を捜し、それを見出した。彼はこの労苦をしたのちにその羊に言った。『わたしはほかの九九匹の羊以上にお前を愛している』」。》(トマスによる福音書・訓言一〇七、F・F・ブルース『イエスについての聖書外資料』教文館、p. 220)

 つまり、その子羊は特別に大きくて価値のある羊であり、羊のなかで一番愛しているからこそ、たいへんな労苦をものともせずに、わざわざ探したのだという話になっている。そこにこめられた比喩的な意味はともかく、古代の人々にとってもおそらくこれが常識的な判断であって、危険を冒して大勢の羊を放置し、一匹の羊を探すからには、何か特別な理由があるはずである。

 しかし、イエスが言ったのは、100匹の羊のうちのどの1匹が迷い出たとしても、群れ全体の危険を顧みず、その羊を探しに行くということに違いない。そこに八木氏は、政治という全体の(偽りの)幸福や正義には関わらず、個々の具体的な良き生を追求するソクラテス、公共のことがらには手を出さないが、困っている個々人については「父や兄のような親切」で手をさしのべたソクラテスと同じものを見たのである(本書、pp. 329-330)。

ソクラテスとイエス

 こうして八木氏とともにソクラテスの実像をたどっていくと、ソクラテスとは、神の存在を身近に感じ、神の声を聞きながら、個々の生に密着した「良い生き方」を探究し、「隣人愛」を説いた人ということになる。詳しくは本書を読んでいただきたいが、確かに、まるでイエスではないか、と思わなくもない。

 一方で、八木氏が指摘するのはほとんどソクラテスとイエスの思想的な類似であって、具体的な影響関係を示唆するかもしれないのは、バートン・マックの『失われた福音書』(邦訳、青土社)に触れている箇所くらいではある。

 《バートン・マックによれば、当時のガリラヤ地方は現代のキリスト教徒が考えるほどイスラエルの一部といえるところではなかった。多くのギリシア化した小村や町があり、ナザレから歩いて一時間程度のところにもそのような町があったという。そしてナザレから一日行程(エルサレムよりはるかに近い)のデカポリス地方は全体がギリシア的(ヘレニズム)地方であった。そしてそこでは何人かの犬儒派の哲学者の活動が伝えられており、イエス自身も、当初は犬儒派の哲学者と見られていた可能性が高いという。》(本書、p. 281)

 この点についていささか補足をしたいのだが、多くの人はなんとなく、イエスの生まれたガリラヤ地方は、伝統的にユダヤの民の土地だ、と考えているように思う。しかし実は、ガリラヤがユダヤの勢力圏に入ったのは、紀元前104年にハスモン朝のアリストブロス1世がガリラヤを従属させることに成功したからであって、イエスが生まれるほんの100年ほど前のことにすぎない。それまで、この地域の文化状況はどうであったか。

 《イエスの活動した地域は、地中海東部に環をなす国々の大集合体の一部であった。この一帯は、アレクサンダー大王の侵攻によってギリシア文明に開かれ、また紀元前一世紀ローマ帝国に組み込まれることによって、何世紀もの間、この文明の中に包轄されていた。……土着の言語や文化を主張しえた都市はごく少ない。せいぜい北シリアのオデッサか、エルサレムぐらいのものである。》(H・ブラウン+H・コンチェルマン他『イエスの時代』教文館、p. 31)

 《それ〔当時の哲学〕が当時の一般的道徳観念に及ぼした影響は、現代の状況との類似から明らかにできるより以上に、大きなものがあった。……というのは職業的哲学者が存在していたからである。……彼らは、教化的な演説や個人的な対話でもって、街頭の人々に直接呼びかけたのである。これらの哲学者たちは、人々の間に貴賤の別なくかなりの信奉を得た。……イエスの時代にもなお、この通俗哲学的倫理学は、ギリシア・ローマ文明の支配的要因をなしていた。》(同前、pp. 36-37。〔 〕内は引用者の補足)

 つまりガリラヤを含むこの地方は、ギリシア文化に席巻され、通俗化したギリシア哲学・倫理学はほとんど一般庶民にまで浸透していた。イエスの時代のガリラヤは、一般のイメージとは逆に、ユダヤ人の土地がギリシア化しつつあったのではなくて、もともとギリシア化していた土地がユダヤの支配によってユダヤ化しつつあったのである。イエスの一族も元はおそらく南のユダヤ地方からの移住者で、ある意味ディアスポラのユダヤ人といえるような状況にあったかもしれない。

 だからこそマックは、人々の先入観を批判し、最近の考古学的調査の成果も踏まえて、イエス当時のガリラヤを正確にとらえなおすべきだと主張するのである。

 《キリスト教徒の想像の世界においては、ガリラヤはパレスチナに属し、パレスチナの宗教はユダヤ教であり、よってガリラヤの住民はみなユダヤ人であったとされる。このガリラヤ像は誤っており、そのようなイメージがもたれるかぎり、Q〔共観福音書のなかのイエスの語録資料〕は意味をなさないので、読者はより真実なガリラヤ像を心に描く必要がある。》(B・マック『失われた福音書』青土社、p. 73。〔 〕内は引用者の補足)

 《イエスが登場する前の三〇〇年におよぶヘレニズムの影響は、とくに重要な要因である。ヘレニズムの影響は、完全にユダヤ的な文化のただ中に登場するイエス像を支持する研究者によって、軽視されてきたものである。だが、あいにくなことに、ガリラヤにおけるヘレニズム化の進行を示す証拠は増加の一途をたどっている。》(同前、p. 82)

 そしてマックは、ガリラヤの隣のデカポリス地方が犬儒派の哲学者を輩出しているなどの当時の文化・思想状況や、福音書のイエス語録の文献学的な成立過程の分析などを踏まえて、イエスは当初、犬儒派の哲学者と見られたのではないかというのである。

 犬儒派は、ソクラテスの弟子であり、ソクラテスを尊敬することでは人後に落ちぬアンティステネスのひらいた学派である。また、クセノポンの『ソクラテスの思い出』を読んで感動したゼノンが、犬儒派の哲学者クラテスに学んで、のちにストア派をひらくのだから、後世への影響も大きい派といえる(『ギリシア哲学者列伝』中、p. 220以下)。

 アンティステネスには次のような逸話が伝わっている。

 《彼はあるとき、悪い連中とつき合っているといって非難されたが、そのときの彼の答えは、「医者だって病人たちと一緒にいるが、だからといって、自分が熱を出すわけではない」というものであった。》(『ギリシア哲学者列伝』中、p. 113)

 まるで、徴税人や罪人と食事をしていることを非難されて、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく、病人である」(マタイ9:10-12)と言ったイエスを彷彿とさせる話ではないか。

 とはいえ、ソクラテスからイエスへの具体的な影響関係が明らかになることは、おそらくないだろう。少なくとも現状では、歴史上の人物としてのイエスの情報があまりにも少なく、ほぼ福音書に限られるからであり、また、もはやイエスの実像を信仰のキリストから完全に分離すべくもないからである。

 われわれにできるのは、ソクラテスとイエスから、多くの人が気づきもせず、ときに常識や主流派の哲学とも真っ向から対立する、個々人の生の具体的場面に即した哲学が存在すると知ること、そして、「良く生きる」とはどういうことかを学ぶこと、それ以外にはないだろう。その「キリストのまねび」と「ソクラテスのまねび」のために、本書『ソクラテスとイエス』は他に代えがたい豊饒な思索と多くのヒントを提供してくれるのである。

参考文献:
ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝』上中下、加来彰俊訳、岩波文庫、1984-1994年。
アリストテレス『弁論術』戸塚七郎訳、岩波文庫、1992年。
フレデリック・フィヴィー・ブルース『イエスについての聖書外資料』川島貞雄訳、教文館、1981年。
ヘルベルト・ブラウン+ハンス・コンチェルマン他『イエスの時代』佐藤研訳、教文館、1975年。
バートン・L・マック『失われた福音書――Q資料と新しいイエス像』秦剛平訳、青土社、1994年。
『聖書』(新共同訳)、日本聖書協会、1987年。

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