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「それでも人生にイエスと言う」 V・E・フランクルが語った、人生の問いに対するコペルニクス的転回

記事:春秋社

「生きる意味」を問うこと

 本書は、『夜と霧』の著者であり、精神科医でもあるV・E・フランクルの講演録です。そこでは、ナチスによる強制収容所に送られ家族の多くを失うという壮絶な体験から導き出された「生きる」ことへの力強いメッセージが直裁に語られています。

 「Ⅰ 生きる意味と価値」の冒頭で、次のように述べています。

それというのも、なにしろ、私たちは、どうしてもつぎのような疑問を抱いてしまうからです。――こんにちでもまだ、「意味」や「価値」や「尊厳」といった言葉をためらいなしに口にすることができるひとがいるのだろうか、いまや、こうした言葉の意味そのものが、大なり小なり疑わしいものになってしまっているのではないか、……。『それでも人生にイエスと言う』3-4ページ
こんにちではもはや、安易な楽観主義に立って、最近の時代に出てきた問題を簡単に無視することはできないということです。……以前、活動主義は、楽観主義と結びついていましたが、こんにち、活動主義の前提になっているのは悲観主義なのです。『それでも人生にイエスと言う』8-9ページ

 これは戦後まもない1946年の講演での言葉であるが、21世紀の今にいたってもまったく変わっていません。私たちは「生きる」ことを正面から問いかけることに引け目を感じ、将来に対し悲観的になっているといえます。

 そのような前提のなかでフランクルは自殺の問題に踏み込んでいきます。

自殺の問題

 フランクルが扱うのは「生きていく意味」が信じられないという理由で自殺するケースです。楽しみがない、幸せが得られそうもない、人生に期待できないといった人々に対し、フランクルはコペルニクス的転回を勧めます。

それは、ものごとの考えかたを一八〇度転回することです。その転回を遂行してからはもう、「私は人生にまだなにを期待できるか」と問うことはありません。いまではもう、「人生は私になにを期待しているか」と問うだけです。人生のどのような仕事が私を待っているかと問うだけなのです。『それでも人生にイエスと言う』26-27ページ

 つまり、私たちは人生に問われている存在であり、生きていることに責任をもって答えていかなければいけないわけです。それに気づくと、未来への恐れはなくなります。現在がすべてであり、常に人生から与えられた現在の新しい問いに答えることだけに専念すればよいだけになります。

 それは、その問いに答えられるのは、その人自身だけであり、代理不可能ということでもあります。積極的に乗り越えられる場合もあれば、苦難に耐え忍ばなければならない場合もあるでしょう。苦難に耐える状況については次のように語っています。

たとえ、さまざまな人生の可能性が制約を受け、行動と愛によって価値を実現することができなくなっても、そうした制約に対してどのような態度をとり、どうふるまうか、そうした制約をうけた苦悩をどう引き受けるか、こうしたすべての点で、価値を実現することがまだできるからです。『それでも人生にイエスと言う』37-38ページ

 ここでも苦難に絶望せず、その人なりの態度と行動によって答えることの重要性が述べられています。フランクルは自殺の問題について最後にこう述べています。

 チェスの選手がチェスの問題に直面して解答がわからず盤の駒をひっくり返すようなもので、自殺することは、人生の問題をそれで解決しようとしているのです。けれども「人生のルールは私たちに、どんなことをしても勝つということを求めていませんが、けっして戦いを放棄しないことは求めているはずです。」

 人生は私たちにさまざまな問いかけを行いますが、放棄せず、ささやかでもよいので、何かしらの行動で答えることを望んでいるわけです。人生はまるで親のように私たちを見守り、働きかけ、常に対話を試みているのです。

死の持つ意味

 私たちは死という運命から逃れることはできません。いずれ自然に死ぬのであれば結局のところ人生は無意味ではないか、そのような疑問にフランクルは次のように答えます。

私たちの人生は有限です。私たちの時間は限られています。私たちの可能性は制約されています。こういう事実のおかげで、……なにかの可能性を生かしたり実現したり、成就したり、時間を生かしたり充実させたりする意味があると思われるのです。死とは、そういったことをするように強いるものなのです。ですから、私たちの存在がまさに責任存在であるという裏には死があるのです。『それでも人生にイエスと言う』47ページ

 死があるからこそ、私たちの生きることに責任をもって行動を起こすというわけです。フランクルは「苦難と死は、人生を無意味なものにはしません。そもそも、苦難と死こそが人生を意味のあるものにするのです」と言い切ってさえいます。

生きる意味と価値

 最後にフランクルは次のようにまとめています。

生きるとは、問われていること、答えること、――自分自身の人生に責任をもつことである。ですから、生はいまや、与えられたものではなく、課せられたものであるように思われます。生きることはいつでも課せられた仕事なのです。このことだけからも、生きることは、困難になればなるほど、意味のあるものになる可能性があるということが明らかです。『それでも人生にイエスと言う』57ページ

 そして、ドイツの叙情詩人・劇作家のヘッベルの言葉を引用しています。「人生はそれ自体がなにかであるのではなく、人生はなにかをする機会である!」苦しいときほど視野や思考は狭くなりがちです。収容所という極限状況の中で見いだされたフランクルの思想は、それを突破するような力強いメッセージを持っているといえるでしょう。

 本書ではさらに病気を扱った「Ⅱ 病いを超えて」、強制収容所での体験に触れた「Ⅲ 人生にイエスと言う」の章もあり、現代社会においても深く関連するこれらのテーマは、時代を超えて、今もなお私たちの心に響くメッセージにあふれています。

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