民主主義をしぶとくするために「自分で調べる」 宮内泰介さんがすすめる5冊
記事:じんぶん堂企画室
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民主主義はどこへ行ってしまうのだろうか? なんだか真剣にそう考えなければならない世の中になってきた、と思う。一方で、でも私たちの民主主義は案外しぶといよ、とも言いたい。いや、しぶとくありたい。
私たちの民主主義をしぶとくするために、「調査する」ってどう? と提案する本を最近書いた。『実践 自分で調べる技術』(宮内泰介・上田昌文著、岩波新書、2020年)という本がそれ。
え? 調査? と思うなかれ。私たちは日々の生活の中でいつも「調査」をしている。何か行動するとき私たちは、誰かから聞いた話だったり、友人に言われたことだったり、テレビで見た話だったり、ネットで見たことだったりを参考にして動いている。これらも広い意味での「調査」なのだ。とはいえ、それらの「情報」が信頼のおける情報かどうか、たぶんに怪しいところもある。もっと信頼性の高い情報に基づいて行動したり意見表明したりする方がいいに決まっている。
『実践 自分で調べる技術』では、文献・資料の幅広い調べかた、フィールド調査のしかた、そして測定のしかたまで、その基礎を書いた。さらに、集めたデータをどう分析すればよいのか、そしてどうアウトプットすればよいのかについても書いた。
ちょっと調べればすぐわかるはずなのに、調べないまま奇妙なことを言っている人たちに私たちはよく出会う。その「ちょっと調べる」はどうすればよいか。それを新書という小さな本の中につめこんだ。『実践 自分で調べる技術』でお伝えした方法は、きわめてオーソドックスな方法で、何か特殊な技能が要るものではない。
しかし、それがどう「民主主義をしぶとくする」ことにつながるというのか。
一人ひとりがきちんと調査して、意見表明して、議論をかわし、よりよい政策を作り出していく、つまり、一人ひとりがしっかりした見識を持って、立派な意見を言えるようにする、それが民主主義だ! --と言いたいところだが、必ずしもそういうことではない。というか、そういうことを言ってしまうと、私も含めて弱い人間たちはたじろいでしまう。そんなことできない、と。
むしろ『実践 自分で調べる技術』で強調したかったのは、そういう「技」をとりあえず知っておく、ということだ。あるいは、そういう「技」のありかを知っておくことだ。「調べることで民主主義を回復させよう」と主張するこの本の主眼は、情報のありか、考える材料のありかを押さえておこう、ということだ。いつもそれを使わなくてもよい。しかし、何かあったときにそれが使えること。必要なときに依存できる確かな資源を、なるべく多く持っておくこと。そのことが私たちの民主主義をしぶとくする。
元新聞記者でもあり、作家でもある外岡秀俊氏は、『情報のさばき方-新聞記者の実戦ヒント』(朝日新書、2006年)で、「情報力の基本はインデックス情報だ」と説いている。インデックス情報とは、「どこに行けば、誰に聞けば確かな情報を得られるのかという情報」であり、「情報のありかをしめす指示情報」である。書籍や情報なら書誌情報がそれに当たるし、集めた情報に自分でつけたラベルもインデックス情報だ。情報をためこむのではなく、インデックス情報をためていくこと。
インデックスの先にあるのは、資料や文献だけでない。インデックスの先には人がおり、また、現場がある。いやむしろこちらの方が大事かもしれない。
たとえば、名著である青砥恭氏の『ドキュメント高校中退-いま、貧困がうまれる場所』(ちくま新書、2009年)の方法に学んでみよう。著者は元高校教師で、現在は若者支援のNPO「さいたまユースサポートネット」代表。青砥氏は、教師時代の2008年、高校中退者の実態を知りたい、と調査を始める。さまざまな統計や資料も集めたが、やはりこの問題を考えるには当事者たちに会って聞く必要があるとして、中退した若者を探して歩いた。それはなかなか困難な取材だったというが、その中で、少しずつ丹念に声を拾っていく。そうやって聞くことを積み重ねることで、高校中退者たちの現実--貧困、暴力、乏しい人間関係、学力不足などが連鎖的にうずまく現実、が浮かび上がってきた。
「高校を中退した若者たちに聞き取りをしていると、父親や兄弟からDVの体験をもつ若者が非常に多いことに気づかされる。父親などの暴力も、収入が途切れて生活苦や将来への不安など貧困が原因とみられるものも多かった」(『ドキュメント高校中退』p.96)
青砥氏のこの仕事が世に出るまで、高校中退者たちの実態は、いわば「見えない社会」だった。それを、会い、話を聞き、書くことで、見える存在にした。
「見えているもの」より「見えないもの」の方が抜群に多いのだと考えた方がよい。「見えているもの」や「見させられているもの」だけで社会を認識することと、「見えないもの」をきちんと見た上で社会を認識することとの間には、大きな落差がある。この差を埋めるものが、「フィールドワーク」であり「聞く」ということだ。
フィールドワークの技法については、『実践 自分で調べる技術』でも比較的詳しく書いたが、それで少しものたりないと思った人には、大学生向け教科書である谷富夫氏・山本努氏編著の『よくわかる質的社会調査 プロセス編』(ミネルヴァ書房、2010年)がおすすめだ。「質的社会調査」は、ほぼイコール、フィールドワークのことだと思ってよい。調査の準備方法やフィールドノートの書き方など、調査の詳しいノウハウがわかりやすく書かれているだけでなく、フィールドワークの根幹にかかわるいくつものこと、たとえば、仮説はあらかじめ立てるのではなく調査の中で見つけていくものだということなども、わかりやすく書かれている。教科書なので、読み物として楽しむというより、まず一回さっと通して読んだあと、置いておいて必要なときに参照する、という使い方がよいだろう。
ところで、フィールドワークで私たちが見なければならないものは、何だろうか?
多くのすぐれたノンフィクション作品を世に出してきた佐野眞一氏は、『目と耳と足を鍛える技術-初心者からプロまで役立つノンフィクション入門』(ちくまプリマー新書、2008年)で、「大文字」の言葉でなく「小文字」の言葉をさぐれ、と言う。
「私がここで言う”大文字”の言葉とは、日本列島の津々浦々で通用する便宜的な用語という程度の意味である。また”小文字”の言葉とは、世界を説くことはないかわりに誰の胸にも届いて感動を呼び起こす肉声といった程度の意味である」(『目と耳と足を鍛える技術』p.31)
佐野氏はこの本の中で、民俗学者宮本常一氏の次の言葉も引用している。
「人の見残したものを見るようにせよ。そのなかにいつも大事なものがあるはずだ。焦ることはない。自分の選んだ道をしっかり歩いていくことだ」
佐野氏のこの本は、ノンフィクションの書き方という体をとっているが、実のところ、私たちの社会認識の指南になっている。
もう一人、たしかな眼力と取材力で私たちに作品を提供しつづけてくれているノンフィクション作家、野村進氏は、『調べる技術・書く技術』(講談社現代新書、2008年)で、「水先案内人」を見つけることが大事だと説いている。ある場所での取材では、元農協組合長、タクシー運転手、高校教師の3人が水先案内人だった、という。そして、そうしたつながりを通して、「もともとの取材の目的とはまったく掛け離れた交友が広がっていくのは、ノンフィクションを書く仕事の大きな喜びであり、私は近年このことをますます強く実感するようになっている」。「人に会い、話を聞き、文章にする。たくさん読み、たくさん観、たくさん聴く。こんなことを繰り返すうち、知らず知らずに自分が豊かになっている」。
単に友だちが増えてうれしいという話ではない。重要な見識がどこにあるのか、そのありかを人間関係としてもっておくということ。自分の身近な「小文字」だけでなく、見えない「小文字」、遠くの「小文字」とのつながり、インデックスをもっていること。
さあ、小文字と小文字がひびきあい、民主主義の逆襲が始まるよ。