英雄か、あるいは暴君か 無数の伝説に彩られたアレクサンドロス大王の「素顔」に迫る
記事:筑摩書房
記事:筑摩書房
ヴェルギナ。ギリシア北部の緑豊かなピエリア山脈の山裾にあるその小さな村は、古代マケドニア史研究の、まさしく「聖地」です。
一九二三年のトルコとの大規模な住民交換によって、小アジアから流入したギリシア人難民の村がギリシア北部に数多く生まれましたが、そうした村の一つであるヴェルギナでテッサロニキ大学の考古学者M・アンズロニコスが一九七七年から一九七八年にかけて行った発掘調査は、ギリシアにおける二〇世紀後半最大の発見とも言うべき、華々しい成果をもたらしました。巨大な墳丘の内部から三基の墳墓が姿を現し、うち二基は未盗掘で、豪華絢爛たる副葬品が出土したのです。これらは明らかにマケドニア王国の王墓であり、アンズロニコスは最大規模の墳墓(2号墓)をアレクサンドロス大王の父フィリポス二世(在位前三六〇/五九〜前三三六)の墓と断じ、大きな反響を呼びました。
その2号墓の、ギリシアの神殿を模したファサード上部のフリーズには、槍や斧を手にした一〇人の男たちが林のなかでライオン、熊、猪、鹿の狩りに興じる場面を描いたフレスコ画(縦一・一六メートル、横五・五六メートル)が施されています(図1)。大胆な短縮法を駆使した、三次元的な立体感のある見事な絵画で、埋土に接していたため損傷が激しいものの、ギリシア世界では原作が現存していない前四世紀の大画面絵画の様式や技法を今に伝える貴重な資料です。
2号墓の被葬者をめぐる議論においては、この狩猟図に描かれた人物の同定が焦点の一つになります。右から三人目の、馬上からライオンにとどめの一撃を加えようとしている年長の人物が、この墓の被葬者とされるフィリポスであるようです。そして、画面中央の最も目立つ位置で、馬に乗って槍を構えている若者が、少年の面影を残した、若々しいアレクサンドロスです(図2)。紫色の衣装をまとい、月桂樹の冠をつけたアレクサンドロスは、右手に振りあげた槍で画面右側のライオンに狙いを定めています。このポーズは、有名な「アレクサンドロス・モザイク」(図3)におけるアレクサンドロスの姿ともよく似ています。亡き父フィリポスを手厚く葬ったアレクサンドロスは、その墓の正面を飾る狩猟図に自らの姿を堂々と描き込ませることによって、父の後継者としての地位をアピールしようとしたのでしょう。
さらに、2号墓からは、約三センチ大の象牙製の肖像彫刻が二〇点以上出土しています。こちらも人物の同定をめぐって多くの議論がありますが、そのうちの二点がフィリポスとアレクサンドロスの肖像であることは、ほぼ通説となっています(図4、5)。首を軽く傾けて視線をやや上に向けた、この小さなアレクサンドロスの肖像は、まだあどけなさの残る、彼の初々しい面差しを生き生きと伝えています。
私たちのもとには数多くのアレクサンドロスの彫像が伝わっていますが、ほぼ全てローマ時代の模刻であり、原作は残されていません。ヴェルギナの狩猟図と象牙製肖像彫刻から、私たちは、貴重な同時代の、まだ理想化や英雄化がされていない、アレクサンドロスの「素顔」をうかがい知ることができるのです。
【Webちくまより転載】