没後50年、シャネルが教えてくれる「嫌悪の精神」とは
記事:大和書房
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シャネルが「黒」を打ち出したのは、けばけばしい色彩のドレスを着る女性たちを見て、「彼女たちに黒を着せてやる」と思ったことがきっかけでした。
「黒はすべての色に勝る」
「私の前は誰も黒を着る勇気がなかった」
シャネルの黒にまつわる言葉はたくさんあります。もともとシャネルは黒い服が好きでした。「リトルブラックドレス」を売り出したのは四十代のはじめ。これは革命的でした。喪服の色でしかなかった「黒」を街中にあふれさせたのですから。
以後、「黒」はパリ・モードの主流となり、もっともシックな色となったのです。
当時、リトルブラックドレスを評して『エル』誌は「この一着だけでシャネルの名は不滅だ」と書きましたが、まさにシャネルスーツと並ぶ、永遠のシャネルスタイルとなったのです。
シャネルが三十一歳のときに第一次世界大戦が勃発。
富める者も貧しい者も生活の変化を強いられました。男たちは戦場に行き、残された女性たちも忙しくなり、身体を動かしやすい服が求められました。
腕を上げられ、速く歩くことができる、つまり実用的な服。それはまさにシャネルが主張したいと思っていたスタイルであり、時代がシャネルと合致したのです。
それまでの女性は、コルセットでぎゅうぎゅうにウエストを絞り上げたうえ、ロングドレスに装飾過多の帽子といった、自由に動き回ることのできない服装をしていました。
シャネルに言わせれば、「あんな大きなごちゃごちゃとした帽子の下ではちゃんと考えることさえできない」。
「シンプルで、着心地がよく、無駄がない」この三つのポイントはシャネルスタイルの基本中の基本です。自分で人生を切り拓いてゆく女性たちのシンボルでもあり、シャネルの生き方そのものでした。
「宝石好きの女たちは、首のまわりに小切手をつけているようなものだ」。
シャネルは上流階級の女性たちを嫌っていました。
夫の富のもとでしか存在価値がなく、パーティーでは他人の宝石ばかりを気にしていて、宝石によって自分の価値が決まるかのように考えている。つまりお金をかけることでしか、ファッションを楽しむことができない、だから軽蔑する。そういうことです。「価値ある宝石をつけたからといって、それで女が豊かになるわけではない」とも言いましたが、この一見当たり前のことが理解されない時代でした。
だからシャネルは、とても魅力的ではあるけれど本物ではないアクセサリー(イミテーションジュエリー)を作り、宝石好きの人たちに挑戦状を叩きつけたのです。
きっかけは、恋人であるロシアのディミトリ大公から贈られた十字型のアクセサリー。宝石ではないけれど、その美しさに惹かれて、イミテーションジュエリーのアイデアを思いつきます。そしてそれを大流行させ、「おしゃれはお金ではなく、センスで楽しむもの」だと証明したのです。
シャネルが生まれながらにしてもっていたふたつの才能、ひとつは「生まれた時代」、もうひとつが「女性であること」です。
男社会のなかで女性が活躍するのは難しい時代だったから、そういう意味ではマイナスだけれど、シャネルはこれを最強の武器にします。
つまり、それまではほとんどが男性デザイナーであり、彼らはどんなにがんばっても、自分で作った女性の服を着ることはできません。自分が「女性に着せたい服」を作ることしかできなくて、ドレスの下にある身体が快適かどうかなんて、ほとんど考えなかったのです。
けれどシャネルは自分が着るための服、着たい服を作ることができて、着る側の女だから、何より着る人の気持ちがわかる。
これは説得力があり、またシャネル自身が最強のモデルだったから、デザイナーが女性であること、これが強みとなったのです。
同時代に女性デザイナーはほかにもいましたが、みな裏方で、シャネルのように表に出ることはなく、そういう意味でもシャネルは他の人たちとは違っていたのです。
一九七一年一月十日。日曜日。働くことのできない大嫌いな日曜日でした。
作家のクロード・ドレイとランチをしたあと、帰り際にシャネルは言いました。
「明日はランチはできないわ。会いたかったらカンボン通りにいらっしゃい。仕事をしているから」
その夜にシャネルは死にました。眠るためだけの簡素なホテル・リッツの部屋で。付き添ったのは部屋係の女性で「こんなふうにして人は死ぬのよ」。これが最期の言葉となりました。八十七歳。
仕事に生きたシャネルは、最後の最後まで創造し続け、仕事のない日曜日を選んで死んでいったのです。