人種差別を育んだ? キリスト教美術の闇を考える 『西洋美術とレイシズム』
記事:筑摩書房
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西洋美術とレイシズム――つまり人種主義あるいは人種差別――、そのあいだにいったいどんな関係があるというのだろうか。タイトルを見て、多くの読者の方が、まずそんな疑問をもたれたのではないかと思う。
ところが、二つは密接につながっている、これが小著の主張するところである。とりわけ、そのつながりがさまざまな様相を見せるのは、西洋美術の根幹をなすキリスト教美術の長い伝統においてである。三つの一神教、すなわちユダヤ教とキリスト教とイスラム教は、いずれも旧約聖書を聖典と仰ぐことで一致している。が、あえて極端な言い方をするなら、そこに語られるいくつかのエピソードを、レイシズム的に読んで絵画にしてきたのは、実のところキリスト教だけである。
このことをわたしは、つづく三つの章で、初期キリスト教から近代にまたがる絵画や彫刻作品を対象に、明らかにしようと試みた。もちろん、「人種」という概念それ自体は、基本的に十八世紀にさかのぼるもので、科学的な裏付けがあるかのように装ったレイシズム、いわゆる「科学的レイシズム」に理論的な根拠を与えてきたわけだが、その根はずっと深くキリスト教とその図像のなかで培われていた、というのがわたしの考えである。
まず最初の章では、旧約聖書に登場する洪水の方舟の話で有名なノアの三人の息子を取り上げる。この三人の兄弟、セムとハムとヤペテのうち、ハムだけが呪われて、未来永劫にわたって「奴隷」となることを宣告されたのである。その後この三人はしばしば、アフリカとアジアとヨーロッパに強引に結びつけられ、それぞれの先祖とみなされてきた。
つづく第Ⅱ章では、三つの一神教の根幹にある存在アブラハムにまつわるエピソードを検討する。すなわち、この始祖がエジプトの女奴隷ハガルに産ませた子イシュマエルの運命である。アブラハムは、正妻のサラに促されて、母子二人を荒野に追放したのである。追放された者は差別の対象とみなされる。さて、その二人の行く末とは。
聖書にはこのほかにも、「人種」や「奴隷」やジェンダーにかかわるエピソードやキャラクターが登場する。「シバの女王」、「東方三博士(マギ)」、「エジプトの宦官」などがその顕著な例である。最後の章の主役となるのは彼ら、彼女たちである。さらに、さまざまな聖人、殉教者たちも重要な脇役となるだろう。
たかが絵に過ぎないのではないか、多くの方からすかさずそんな反論が返ってくるかもしれない。たしかに、たかが絵である。だが、少しわたしたちのまわりを見回してみよう。アニメやゲーム、テレビや映画からネット上にいたるまで、さまざまな視覚的メディアのなかのイメージの氾濫に、わたしたちは日々どれだけ一喜一憂させられていることか。ましてや、メディアが絵画や彫刻に限られる中世やルネサンスにおいて、その影響力の大きさは、おそらくわたしたちの想像を絶して余りあるだろう。
「問題の根は深い」、多くの人が口をそろえていう。とりわけ、ここのところアメリカで頻繁に報告されている、警察官による無防備の黒人への暴行や殺害事件を耳にするにつけ、人種差別の実態の深刻さと重さに改めて気づかされないではない。とはいえ、その深い根が実のところ宗教的なものにあることは、少なくとも日本では取り上げられてこなかった。
ほぼ二千年にもわたるキリスト教美術の歴史のなかで、人々が目にしてきたものが、ほとんど無意識的な記憶となって残存しつづける。小著が、これまで抑圧されてきたその無意識に気づくためのささやかな手引きになるなら幸いである