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1年で25校の大学入試に出題された名文から湧き出た本 ――椹木野衣『感性は感動しない』

記事:世界思想社

『感性は感動しない』(世界思想社)
『感性は感動しない』(世界思想社)

 この本は、美術批評家の私にとって初めての書き下ろしエッセイ集です。もっとも、すべてが書き下ろしであるわけではありません。なにより冒頭に置かれ、本書のタイトルにもなっている「感性は感動しない」は、もともと2012年の春に組まれた雑誌『世界思想』39号の特集「感性について」のために寄稿された一編でした。しかし同時にこの一編が、そのあとに続くすべての文章が湧き出す泉のような役割を果たしたのです。

 美術批評と言っても私の場合、広く世に知られた日本美術や西洋美術と違い、「難解」であったり「先鋭的」であることで知られる現代美術が対象です。そのようなものに日々取り組んでいる私のような批評家の書く文章が、日本語の「エッセイ」という、どこかほんわかした響きになじむものかどうか。そう感じつつも、私がそのあとに続く文章を書いてみようと思ったのには、きっかけがありました。この文章が、その年の日本全国の国公私立大学の入試問題に、驚くほどたくさん(確認できているだけでも25校)取り上げられたのです。

 あまりにもその数が多かったので、関心を示したある編集者の方が、そのうちのひとつを手に入れて、受験生と同じ条件で私に問題を解かせてみたくらいです(特集「自分の文章が使われた入試問題を解いてみました」所収「受験とポストモダン」、『新潮45』2013年5月号)。正解はなんと半分でした。私が受験生であればきっと落ちていたでしょう……。

 しかし、私が自分の書いた文章についての設問を半分しか解けなかったとしても、これまでとは比べものにならないほど多くの人たち、とりわけ若者がこの文章を読んだのはまちがいありません。しかも、美術に関心があろうとなかろうと、です(この文は今でも高校の教科書や、予備校での受験対策に使われ続けています)。

 これまでも美術について、連載を通じてできるだけやさしく解き語る本を出したことはありました(『反アート入門』幻冬舎)。でも、それも多かれ少なかれ美術に関心がある人を想定してのことです。けれども、そんなことがあったので、最初にこの文の執筆を依頼してくれた編集者の方のリクエストに乗るかたちで、私は美術について、もっと多くの人へと向けて語るような「エッセイ集」を書いてみたいと思うようになりました。連載のようなかたちとはまったく違うやり方で、思いつくがまま、その時々の気持ちを反映するかたちで、ぽつぽつと。そういう意味では、エッセイが本来持つ意味、つまり「随筆」、もしくは「随想録」に近いと言えるかもしれません。

 このようなエッセイ集を私が書いたもうひとつの理由は、そのようなもろもろが私に、受験や、そのために時に削られもする青春といった、人生でも若者しか持つことができない、短くてかけがえのない年月のことを思い起こさせてくれたからです。

 ゆえにこの本では、美術の見方、味わい方に続いて、私がどのようにして美術批評を書くに至ったか、実際どのように書いているのかといった、現場報告のようなことも書いています。さらには、美術を専門にしていたわけでもない私が、若いころどんなことに関心を持ち、なにを考え、毎日をどのように過ごしていたかについての回想も含めました。そうこうしているうちに私は、自分が学生時代を過ごした京都や、生まれ育った秩父のことにまで想いを馳せるようになりました。そして、そうした場所で過ごした記憶や感性が、筋肉や持久力のように「鍛えられる」のとはまったく別のかたちで、当時とほとんど変わらぬ顔つきのまま、今の私の生活や考えに、驚くほど大きな影を落としていることに気づかされたのです。その意味ではこの本は、受験や青春といった「特権」を持つ若者たちはもちろん、かつてそういう時代を過ごした人たちのなかの、一見したところ若さが失われたかに思える「隠れた若者たち」にも語りかけています。

 そんな随想が、今こうしてようやく、一冊の本にまとまりました。けれども、冒頭に書いたとおり、この本の頭に置いた「感性は感動しない」が、やはりすべてのきっかけであり、始まりでもあったのです。最初に「泉のような役割を果たした」と書いたのは、そのためです。だからこの一編だけは、そのあとに続く文章とは独立し、初出のまま文体も変えずに収めています。この文を読んで、人によってはちょっと難しいな、と感じる人がいるかもしれません。しかし、たとえば光り輝く宝石のようなものでも、原石というのはもとは無骨で、どこか見分けのつかないものではありませんか。心地よい温泉でも、源泉はとても熱くて、下手をすればやけどをしてしまいます。でも、そういう原石や源泉がなければ、質の高い宝石も温泉も成り立ちません。だから、私はそれに続くそれぞれのエッセイで、この原石をいろいろと工夫して、割ったり削ったり、見晴らしのいいところに運んだり、源泉なら丈夫な管に通して熱を落としたりして、読んでくれる人にとって味わいがあるようなものに仕立て上げていきました。

 でも、だからと言って、決してたんに心地よいというものにはしていないつもりです。原石や源泉の持つ荒々しくて底知れない特徴も、成分としてはしっかり残したつもりです。できれば、この本をひと通り読み終えたあとでもう一度、この「感性は感動しない」に戻ってきてみてください。そのとき、あなたの感性もまたくるっと一回転して、少しずつ鍛えられるのとは別のかたちで、前とはぜんぜん違うものになっているはずです。

 絵を見たり文を書いたりすることに、マニュアルはありません。これから順を追って書いていきますが、実はどのようでもありうるのです。しかし、どのようにもありうることを発見するのは、とても難しい。そんな難しいことは、学校では絶対に教えてくれません。学校は誰にとっても同じ「答え」を教え、学ぶところだからです。しかし、そういうことがありうるということを見つけるために、学校でもちょっと変わった位置に置かれがちな美術や、ふだんあまり聞きなれない批評について考えてみることは、とてもよいきっかけになるはずです。絵を見ることや文を書くことには、わかりやすい「答え」がありません。突き詰めれば、誰もが違う人間だからです。

 そう、私がこの本を通じて伝えたいことは、煎じつめて言えば、あなたにとっての世界が、まだ手つかずの未知の可能性の状態としてここにある、ということの神秘なのです。それを発見することができるのはあなただけだ、ということでもあります。絵を見たり文を書いたりすることは、ものを食べたり空気を吸ったりするのと違って、しなければそれで済んでしまうことです。しかし同時に、人生にとって無駄とも思えるそういう領域のなかに、私の言う神秘はひっそりと隠れていて、いつかしっかりと見つけられるのを待っているのです。

 さあ、これからこの本を通じて、世界への新しい扉を開いてみて下さい。世界の入り口へと通じる扉は、実は一枚ではありません。その先にある隠し扉こそが、本当の扉なのです。当然、そのことに気づいてしまうことの恐れもあるでしょう。反面、それと同じくらいの喜びもあるはずです。容易には両端が見えないほどの、それほど大きくて果てのない振れ幅。これはもう、絶景というよりは奇景かもしれません。でも、それが人が生きることの神秘が繰り広げられる「感性という名の舞台」でもあるのです。

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