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仮設住宅で被災者と言葉を交わした日々 『震災復興の地域社会学』

記事:白水社

被災者それぞれの「生」に寄り添うということはいかにして可能なのか? 吉原直樹著『震災復興の地域社会学 大熊町の一〇年』(白水社刊)は、希望の「底」で問い続けた震災十年目の復興論。
被災者それぞれの「生」に寄り添うということはいかにして可能なのか? 吉原直樹著『震災復興の地域社会学 大熊町の一〇年』(白水社刊)は、希望の「底」で問い続けた震災十年目の復興論。

 唐突のことであった。2020年9月17日、仙台市に本社を置く新聞社の東京支社のある記者から、取材の申し込みがあった。「閣議決定した菅内閣の基本方針で、東日本大震災の項目が一切消えました。安倍政権では退任まで震災の項目が掲載されておりました。震災10年を前に、この文言の変化をどのようにみられるか、ご見解をおうかがいしたい」と。わたしは、即座に「菅内閣の自助・公助・共助の方針、とりわけ自助を強調する姿勢が顕著にあらわれているのではないか」とコメントした。そのコメントは翌日、報道され、共同通信社のネットワーク網を通して全国に伝えられた。その後、菅義偉首相が9月25日になってはじめて被災地に足を踏み入れたことは、各メディアが伝えているとおりである。

 いまから考えてみると、この一件は、後付け的にいわれるような「基本方針からの記載漏れ」ではなく、むしろ政府=国が東日本大震災をいちはやく過去のものにしたいという姿勢のあらわれであったように思える。そしてこのあらわれは、被災者以外の多くの人びとが抱いている、(震災のことを)「忘れたい」という意識と奇妙にも共振しているようにみえる。そこには、未曾有の人災を忘却の彼方へ追いやるといった社会の闇の部分が顔をのぞかせている。

 いま、被災地の外側では、こうした「忘れること」に象徴的にみられるような社会的暴力状況が深くおぞましく進行している。そうしたなかで、被災地、とくに原発事故被災地の内部ですすんでいる「大文字の……」となぞられる復興をみる被災者のまなざしは、必ずしも一様ではない。また、それらを単視点で形象することもできない。被災者は、この10年を、絶望とまではいわないまでも、あきらめとともに生きてきたようにみえる。そしていま、「捨てられる」という意識を強く抱いているようにもみえる。

大熊町民が暮らした仮設住宅(会津若松市で、2013年4月、朝日新聞)
大熊町民が暮らした仮設住宅(会津若松市で、2013年4月、朝日新聞)

 2011年夏、ふとしたことで、会津若松市にある大熊町被災者が寄り集まる仮設住宅を訪ねることになった。それから隔週で通うようになってからほぼ9年になる。四季折々に変化する会津磐梯山を身近に感じながらのことであった。その間、あるときは被災者と寝食をともにしながら、またあるときは被災者にとって慣れない雪かきや雪下ろしを手伝いながら、被災者の発する言葉に耳を傾けてきた。途中で、家族が離散するのにいくつも出会ったし、急に逝ってしまった人を野辺送りすることもあった。出会いと、その何倍もの別れがあった。こうして9年近くにわたって、春になると被災者の前から姿を消し、ふたたび春になると戻ってくる。内山節のいう「横軸の時間」を共有してきた(内山『時間についての十二章──哲学における時間の問題』岩波書店、1993年)。

 しかし2020年、最後の仮設住宅が撤去された時点で、この「横軸の時間」は消えてしまった。それに代わって立ちあらわれたのは、被災者を「元あるコミュニティ」に戻し、「作業員のまち」へといざなう「縦軸の時間」であった。かつての仮設住宅地では、ところどころが亀裂の入ったセメントに覆われ、雑草が生い茂る空き地だけが残った。

 わたしが仮設住宅で出会った被災者たちは、けっして「訴える人びと」でもなければ「慟哭の民」でもなかった。むしろ驚くほどに寡黙であり、かれら/かの女らの奥にあるものをどう理解すればいいのか、戸迷うばかりであった。他方、わたしたちが被災者に投げかける言葉が空回りしていることに腹立たしい思いが募った。しかしわたしにとって、仮設住宅で被災者と言葉を交わした日々は、まぎれもなく「生きられた時間」のなかにあった。

 だが、いつごろからだっただろうか。被災者に寄り添うかたちで、「大文字の復興」ではなく「小文字の復興」を言うことに、ある種の空しさをおぼえるようになった。ひとつには、その「小文字の復興」という言葉が被災者に意外に届いていないことを、深く知らされたからである。そのときから、声にならないかれら/かの女らのかそけしつぶやきをどう受け止め、どう伝えていくのかが、わたしにとって大きな課題となった。そしてそれこそが「小文字の復興」のはじまりとなるのではないか、と思うようになった。

 本書では、被災者のつぶやきの裡に、「被曝した福島を言う言葉」ではなく「被曝した福島が言わせる言葉」をみてとるようにした。それは、かつて竹西寛子が原民喜の『夏の花』(新版、晶文社、1970年)の解説版でいった「被爆した広島が言わせる言葉」を、「悲しみのなかにとどまり続け、嘆きを手放さないことを自分に課し続けた原[民喜]」の「弱く小さな声」と読み替えた梯久美子に擬えて命名したものである(梯『原民喜──死と愛と孤独之肖像』岩波書店、2018年)。

 そういえば、原民喜が自死したのは、1951年3月13日であった、そしてちょうど60年後の3月13日の2日前に福島第一原子力発電所が爆発した。原は「祈り」と題した詩で、つぎのようなフレーズを刻んでいる。

もっと軽く もっと静かに、たとえば劵みつかれた心から新しいのぞみのひらかれてくるやうに何気なく畳のうへに座り、さしてくる月の光を(『原民喜全詩集』岩波書店、2015年)。

 本書は、この原が詠った「新しいのぞみ」=「月の光」を、被災者のつぶやきとともに、「横軸の時間」がつむいできた日常のささいなできごとの数々を通して浮かび上がらせようとするものである。それが成功しているかどうかはさておき、やがて来る10年という歳月が、被災者にとってはいうにおよばず、わたしにとっても、かぎりなく重く、ひとときも瞑目しがたいものであることは、否みようのないものである。

【吉原直樹『震災復興の地域社会学 大熊町の一〇年』(白水社)「あとがき」より】

吉原直樹『震災復興の地域社科学 大熊町の一〇年』(白水社)P.196─197より
吉原直樹『震災復興の地域社科学 大熊町の一〇年』(白水社)P.196─197より

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