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ノーベル文学賞作家が描く3.11への鎮魂歌 イェリネク『光のない。』三部作

記事:白水社

震災から10年、シアターコモンズ'21での公演に合わせ緊急出版! エルフリーデ・イェリネク著『光のない。[三部作]』(白水社刊)は、東日本大震災と原発事故がモチーフの「光のない。」に「エピローグ?」と「プロローグ?」を併録。日本の読者に、自作解説(「よそものとしてわたしたちはやってきて、誰もが一人のままでいる。(わたしの作品『光のない。』についてのいくつかの考え)」も特別に寄稿された、まさしくワールドプレミア・エディション。三部作、一挙収録[訳文一新]。
震災から10年、シアターコモンズ'21での公演に合わせ緊急出版! エルフリーデ・イェリネク著『光のない。[三部作]』(白水社刊)は、東日本大震災と原発事故がモチーフの「光のない。」に「エピローグ?」と「プロローグ?」を併録。日本の読者に、自作解説(「よそものとしてわたしたちはやってきて、誰もが一人のままでいる。(わたしの作品『光のない。』についてのいくつかの考え)」も特別に寄稿された、まさしくワールドプレミア・エディション。三部作、一挙収録[訳文一新]。

エルフリーデ・イェリネク『光のない。[三部作]』(白水社)所収「日本の読者に」より
エルフリーデ・イェリネク『光のない。[三部作]』(白水社)所収「日本の読者に」より

『光のない。』三部作とイェリネクの方法

 東日本大震災から半年も経たない2011年8月末、イェリネクは震災と原発事故への応答として「光のない。」を完成させ、9月のケルン市立劇場での初演を経て、12月21日に作品全文を自身のHPで公開した。

 その後、2012年3月12日、つまり東日本大震災から1年を迎えた日の翌日、イェリネクはやはり自身のHPで「エピローグ?」を発表し、さらに同年9月7日に「プロローグ?」を公開した(ただし「プロローグ?」は2015年9月1日に最終更新されている)。

 この三作品のドイツ語原文は現在もHP(www.elfriedejelinek.com/)で読むことができる。テクストの合間には、放射線量の検査を受ける子どもたちやお年寄りや犬、あるいは事故後の原発の内部の様子、さらには福島に置き去りにされた牛や豚の写真がはさみこまれている。

 一読してわかるとおり、三作品には地震や津波、放射性物質や放射性廃棄物、汚染土などを示す表現が用いられ、日本政府の政策や東京電力への批判と読める部分が多数存在する。しかしながら、作中には日本、地震、津波、原発、福島といった言葉自体はあらわれない。それはなぜだろうか。2004年のノーベル文学賞受賞記念講演と1989年のインタビューからそれぞれ一節を引こう。

念のために、わたしを守るためだけでなく、わたしの言葉がわたしのとなりを走っていて、コントロールします、わたしが正しくしているかどうかを、わたしが現実の描写を正しく誤ってしているかどうかを、なぜなら現実はつねに誤って描かれなければならないからです、現実は他にどうすることもできません、ただ、それを読み、また聞く誰もが、その誤りにすぐに気づくようなかたちで誤らなければなりません。現実は嘘をつきます! そしてわたしを守ってくれるはずの言葉という犬が、わたしはそのためにこの犬を連れているのですが、そのときわたしに噛みついてきます。わたしを守るものが、わたしを噛もうとするのです。

しかしわたしの作品は歴史劇ではなく、まして歴史主義的な作品ではありません。わたしの作品は時間のさまざまな層を互いに入り組ませます。わたしの作品は、現在をその歴史的次元において可視化しようしており、またなによりもまず政治的な意思表明にもとづいています。このことがわたしの作品とポストモダンを明確に区別します。

 イェリネクの作品は、

  1.  現実の正しい描写ではなく、それどころか現実はつねに誤ったかたちで描かれなければならない。
  2.  そのとき著者自身が言葉という犬に噛みつかれる。言葉は完全にコントロールできるものではない(イェリネクはかつて「フロッピー」という雌犬を飼っていて、この犬は不安になりやすく、おびえると飼主を噛んだという)。
  3.  しかし同時に、だからといって言葉で現実と戯れているのではない。

作品の出発点には政治的な意思があり、罪ある者たちが責任を逃れ、犠牲者が生まれつづける現実への怒りがある。

 これらは互いに矛盾する特徴だろうか。

 そうではないだろう。

 イェリネクは政治的な意思にもとづき、現在をよりよく見えるものにしようとする。

 言葉による現実の正しい描写は不可能で、言葉は現実を誤って描くことしかできないが、逆にその誤りを通じて、目の前の現実とは明らかに異なり、現実にとっての「よそもの」であるなにかを通じて、現在はよりよく見えるものになりうる。正しい現実を求める限り、見えないものがあり、聞こえない声があり、考えることのできないなにかが残る。また、より正しい現実が描かれている、前向きな解決策が提示されているとわたしたちが感じてしまうそのときすでに、かのじょが批判しようとしている権力者たち、扇動者たちのわかりやすい言葉や、利益を誘導する言葉と変わらなくなってしまう危険があるだろう。

 『光のない。』三部作においても、現実は明らかに誤って描かれている。それは現実の日本ではなく、現実の福島ではない。しかしだからこそそこから見えてくるものがあり、聞こえてくる声がないだろうか。

【エルフリーデ・イェリネク『光のない。[三部作]』(白水社)所収「訳者あとがき」より】

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