知られざるイタリアの出版社と作家たちの交流 対抗文化とその担い手たちの物語
記事:明石書店
記事:明石書店
本書は、ファシズム台頭期から第一次ベルルスコーニ政権の時代に到るまでの、ひとつの出版社を軸とした対抗文化の展開とその担い手たちの物語である。
イタリアと言えば、ローマ、ミラノ、フィレンツェ、ヴェネチア……と即座に幾つかの都市が思い浮かぶ私たち日本人にも、トリノと聞いて具体的なイメージを呼び出せる人は少ないだろう。
トリノは、西はフランス、北はスイスと境を接する北イタリア・ピエモンテ州のほぼ中央部に位置し、約六〇万の住民を抱えた州都である。一七二〇年から一八六一年にかけては、サルデーニャ王国の首都所在地であり、一八一五年から一八七一年にかけて各地で展開されたリソルジメント(イタリア統一運動)の中心地でもあった。リソルジメント精神は、二〇世紀においても、それを自由主義的解放運動と捉えるこの地の思想家・社会活動家を始めとする人々に受け継がれていた。一方また、イタリアに近代的資本主義化をもたらした自動車産業とそれに対峙する労働運動の都市でもあり、それぞれの自負がこの北イタリアの都市にとって固有の精神的下地をなしていた。そして、二〇世紀の前半にはファシズムがこの都市にも大きく影を落とし、リソルジメントの精神的末裔である本書の主要人物たちの生と活動に不可分な半身のように付きまとうことになるのである。
チェーザレ・パヴェーゼ、レオーネ・ギンツブルク、ジュリア・エイナウディの三人は、時を同じくしてトリノの同じ高校に在籍した。三人が志を同じくして出版社を起こし、後発の小出版社ながらもイタリア文化に革新をもたらしたと書くといささか「神話」めいてくるが、当地の「名門高校」でこの三人が出会ったという事実は、社会的なバックグランドを持つ家庭の優秀な子弟がそこに進学する当地の事情を考えれば、それほどの偶然でもないだろう。ただ、この時期に着任した教師アウグスト・モンティとの出会いはその後を決定づける出来事だった。それぞれに早熟で優秀であっても、もしかしたらすれ違うに過ぎなかったかもしれない生徒たちを結びつけ、その後の生と活動を方向づけるには、この教師の存在が不可欠だったからである。彼もまたリソルジメントの精神の後裔のひとりである。本書の縦糸であるエイナウディ社の歴史を振り返るとき、「そもそもすべては、アウグスト・モンティとともに始まりました」というある人物の証言は、「神話」ではない。詳細は、本書の記述で確認して戴くとしよう。
イタリアのファシズムの歴史と現実は、逆説的な言い方をすれば、彼らの精神と活動の「培養土」でもあった。チェーザレ・パヴェ―ゼは、自分の志や本領とは別の事情でこの現実に翻弄された。後に現代イタリア文学を代表することになるこの小説家は、自身その意味を把握できないまま流刑地に送られるはめになる。そして、生来の鬱屈と矛盾に時代のスティグマを刻印されることで時代の病巣を浮き彫りにし、「トリノ三部作」を始めとする小説にそれを結実させた。著者が彼の死から語り始め、折に触れては自他の証言に多くのページを割いているのは、この作家にいわば時代を測る試験紙的な役割を求めているからであろう。また、目的意識の明確な社会変革者とは言えないこの作家が「トリノの精神」の一方の主役であるのは、自身の内側と向き合う中で発見し、翻訳・紹介に努めた「アメリカ」が、民族主義に自足するファシズムの中にあってイタリアの視野を外の同時代的現実へと拡大し、遠回りながらも息切れしない反ファシズムの視座を据えたことに大きな意義を認めているからだろう。
レオーネ・ギンツブルクは、妻の小説家ナタリア・ギンツブルクや息子の歴史家カルロ・ギンツブルクと比べると、日本の読者にはなじみが少ないかもしれない。それは内に溢れる理念を著作に結実させる時間が残されていなかったせいで、当時の彼の存在感とは別の問題である。ユダヤ系ロシア人として生まれた彼は幼少時から早熟な才能と博識で頭角を現していたが、学業を終えるとすぐパリに渡り、カルロ・ロセッリを中心とした〈正義と自由〉の亡命イタリア人活動家グループと接触して、トリノの反ファシスト・グループの中心人物と目されていく。ユダヤ出自は、内からも外からも終生彼を離れない。シオニズムとは距離をとってイタリアに固執させたのが彼なりのユダヤ人意識だとしたら、外から追い立てたのは一九三八年に成立した〈人種法〉だった。短い半生は、反ファシズム活動と投獄・流刑の繰り返しに費やされるが、その中にあっても精力的にエイナウディ出版社の始動時を牽引した。ロシア文学の研究者・翻訳者として大成する期待を抱かせながらも、自身の表現活動を十全に開花させる前に、この現実に否応なく対峙した行為者として生半ばで獄死する。
後世の私たちの目からは、一見交わることのないように思われるこのふたりを同じ土俵に繋ぎとめておいたのは、エイナウディ出版社という共通の枠の存在であろう。前のふたりより幾分年少で、高校時代には「モンティの周りに集まる修道会のような雰囲気」(ボッビオ)の年長者とはいささか距離をとっていたジュリオ・エイナウディが、このふたりを引き込んで出版社を立ち上げたことは先にも述べた。著名な経済学者で、戦後初代大統領になる父を持つ彼は、そのような出自の醸成する種のカリスマ性を備え、反権力への意志とブルジョア的横暴さを(当人としては)矛盾なく併せ持つ人物でもある。その一方向に要約できない個性があったればこそ、方向性も個性も異なる人物たちをエイナウディ社という一点に集約できたのかもしれない。
本書はその彼を座標軸とし、出版社をいわば座標面とする形で叙述を進めていく。その座標面上に個性も生との向き合い方も異なる登場人物それぞれの活動が配される。ただし、エイナウディ自身、不動の座標軸ではなく、同様に揺れ動いて他の人物の位置関係にも変化をもたらしながら、社をイタリア文化の一翼を担う存在へと仕立てるのである。
以上の三人の生と活動を中心に、エイナウディ出版社の盛衰に多くの人々の横糸が絡んで織りなすこの物語は、ナタリア・ギンツブルクに一章を設けた後、「言葉の消耗と文化の喪失に対して、エイナウディ社はカルヴィーノの死の直前まで防波堤をなしていた」と記したイタロ・カルヴィーノに当てた章をもって終わる。
本書には、当事者たちの公刊された書簡や日記はもとより、一般読者には閲覧が容易でない新聞・雑誌掲載文、業務書簡や査読報告、さらには著者自身による関係者へのインタビューによる証言までおびただしい引用が織り込まれている。それが本書を貴重なものにしていることを付言しておきたい。
著者は、「ベルルスコーニのどぎつく、華々しくも卑俗なテレビ・イタリアの中で文字は意味を失った」という認識を語っているが、この間に表現媒体も既存のメディアからインターネットに軸足を移し、SNS等による個人の発信が当時とは比べられないほど表現世界の景色を変えている。それに伴って、権力との対峙や権力によるメディア操作とは別種の、言語表現に伏在するネガティヴな側面を顕在化するようになった。本書に描かれた時代には予測もつかなかった新たな事態の登場である。公共圏における根拠と責任のある議論風土の存立が問われている今日、「引き出し可能」なビアンカマーノ街の遺産をどのように引き出して個人のメディア・モラルに繫げていくか。それが、本書によって読者それぞれに委ねらえたひとつの続編となるはずである。