1. じんぶん堂TOP
  2. 歴史・社会
  3. 可能性としてのファシズム 従来のイメージを刷新するムッソリーニ論から何を学ぶか

可能性としてのファシズム 従来のイメージを刷新するムッソリーニ論から何を学ぶか

記事:筑摩書房

original image: Tuombre / stock.adobe.com
original image: Tuombre / stock.adobe.com

 ムッソリーニの政治的成熟の時代は、彼の二十代初期のスイス滞在期であった。そこで彼はローザンヌ大学で教鞭を執っていたイタリアの経済・社会学者のパレートに接した。人間行動における非合理的な側面を重視し、歴史を動かすのは力(暴力)であると見ていたパレートの主張はムッソリーニの感情的な革命主義に論理上の根拠を与え、後にファシズムの歴史観となった。また、彼はパレートの提唱するエリートの周流説に決定的な影響を受け、その結果、エリートが政治闘争の主役であるという確信は自分の思想の中核となった。そして、パレートに従って、マルクス主義の階級闘争もエリートの交代として解釈するようになった。

 スイスでフランスの革命的サンディカリストの理論家、ソレルの『暴力論』も読んだ。ソレルも人間の非合理的な側面を重視し、大衆の社会行動を心理的な観点から分析した。ソレルからは大衆動員のための、感情的な要素に基づいた確信(政治的ミュトス〔神話〕)の重要性について教わった。パレートとソレルは政治家としてのムッソリーニの性格の二つの側面を象徴するといえよう。政治闘争を、政権を獲得するための力の行使として理解したパレートの哲学は策士としてのムッソリーニの冷静な行動に実現され、政治的ミュトスを分析したソレルの論理は指導者としてのムッソリーニの情熱に発揮された。

 スイス滞在期に、彼はソレルの感化を受けていたイタリアの革命的サンディカリストに接近して、彼らの主張に共鳴するようになり、ファシストになるまで、社会党に入党しても本質的に革命的サンディカリストであったと言える。彼らの思想に大きな借りがあることを彼は認めていた。それは、民主主義の否定や、直接行動の称賛や、闘争による人間の精神的向上の観念である。また、一部の革命的サンディカリストが国家と民族の問題を重視していたことは、彼にもこの問題を意識させたのである。

 この時期に彼はマルクス主義についても徹底的に研究し、その結果、マルクス主義の良き理解者となり、イタリア社会党の幹部のなかでマルクス主義にもっとも詳しい人物とされたが、マルキストになったとは言えない。彼は、マルクスを自己流に理解し、建前としてマルクスの経済社会論を称賛しても実際には史的唯物論に共鳴せず、マルクス思想を観念主義の範疇へ帰させようとした。彼はマルクスを、ブルジョア階級の破綻を予言し、新鮮な勢力としてのプロレタリアに革命の使命を与えた偉大な思想家として尊敬していたが、マルクス主義を単なる革命の哲学として解釈し、結果的にそれを政治的・思想的に空洞化させてしまったのである。

 ムッソリーニがマルクス主義を行動の哲学として理解したことは特に注目に値する点である。こうして、彼はニーチェ哲学との合流への道を開いた。社会主義者としてのムッソリーニの思想の特徴はマルクスとニーチェとの共存である。社会党時代に彼はすでにニーチェ的な人物と見なされていた。しかしニーチェ解釈にも、彼は独自性を発揮した。ニーチェの超人主義をエリートの精神的形成への道として理解し、「超人」に革命を指導させ、大衆の精神的・知的水準を向上させる任務を与えたのである。

 第一次世界大戦の勃発は、彼の精神的過程における決定的な節目となった。彼は国の将来が決まる時点で、すべての階級の運命が共通であるのを自覚したことで、民族主義の重要性を理解し、階級闘争よりも国家同士の闘争を重視するようになった。社会の見方も変わり、富の分配について争うよりも、生産を増やすことを、社会問題の解決への道であると認識し、社会闘争がプロレタリアとブルジョアとの間ではなく、生産者と非生産者の間で行われるべきであることを提唱するようになった。加えて戦争の経験は、民族共同体という政治的ミュトスが国民を動員する力があることを彼に教えた。国家に対する認識も変わった。国家組織の強さ、共通の目的へと社会をまとめるその力を認めざるを得なかった。

 このようにムッソリーニは、自分の社会主義の要点だった階級闘争と国家権力否定の主張を破棄してきたが、社会正義の確立のための革命という父親譲りの夢は決して捨てなかった。ただ革命を既存体制の崩壊ではなく、エリート交代の形を取った社会の再編成として理解するようになり、社会正義の達成のためには労使関係の対立よりも生産者同士の協調が望ましいと考えるようになった。

 ムッソリーニの思想の発展が最終的に完成したのは、ローマ進軍の後、哲学者ジョヴァンニ・ジェンティーレとの出会いによってであった。ムッソリーニは、「意志として思考を把握し、行為を知識の源泉とし、無限に変容する世界が思惟の主体において一貫性を得られる」と主張する行動の哲学としてのジェンティーレの観念主義に自分の思想との一致点を見出し、ファシズムの論理上の整理を彼に依頼した。ムッソリーニの名前で発表された「ファシズモの原理」はほとんどジェンティーレの著作と言ってもいい。しかし、ジェンティーレが提出した下書きに対して彼が重要な訂正を付け加えた事実は、ムッソリーニが思想上の問題を意識していたことを証明している。彼はマルクスやレーニンと違って理論家ではなかったし、現実を全面的に解釈し整理しようと主張する体系的なイデオロギーを拒絶していたが、哲学上の問題を重視していた。彼の哲学は論理的思考を超越する直観を強調し、直接知識としての行動を称賛する主意説に立っていた。

 ムッソリーニは決定論としてのイデオロギーを否定したことで実践的な政治家とされているが、この否定そのものが彼のイデオロギーであると言える。また、他人の思想を再編成するに止まった独創性を欠いた思想家としての批判もあるが、異なった思想を統合する能力こそ彼の天分であった。彼は十九世紀末から台頭してきた多様な思潮を統合し得る思想的な枠組みを定め、またイタリアの思想的伝統の継続を重視し、新と旧とに一貫性をもたせることも追求した。異なった歴史的・文化的な経験を有する地方を結合して形成された統一国家イタリアは、このような思想を要求した。しかも、あらゆる思想へのアプローチにおいて、彼はいつも選別的で、それぞれから幾つかの要素だけ取り入れて、自分の思想に適合するように解釈した。実際彼は、あらゆる思想との出会いにより感化を受けるよりも、むしろ自分の確信の裏付けを追求し、あるいは自己啓発的な方法で無意識的に感じていたことを自覚し、思想的に整理するようになった。

 ロシア革命の波が全世界に広がりつつあった時期に、ムッソリーニが初めて左翼勢力を屈伏させたことは、彼の評価に決定的な影響を与えた。彼は一方で反共の闘士の鑑として称賛され、他方反動的圧政の元祖として憎悪の対象となった。しかし、このイメージはムッソリーニの正確な理解のためには障害となる。左翼革命排撃はもともとムッソリーニの政治的発想の主旨ではなく、歴史の条件によるひとつのエピソードに過ぎない。彼にとって本格的な敵は既成勢力であり、革命的勢力はむしろ競争相手であった。彼は旧体制の全面的拒絶を提唱し、自由主義とともに社会主義をも時代遅れの失敗したイデオロギーとして否定して止まなかった。そのために、彼の思想の分析に当たって反抗的・否定的・崩壊的な性質が強調されるが、ムッソリーニは旧時代の拒絶に止まらず、新しい時代に対して思想・政治上の建設的な提案を投げかけたのである。その提案とは、社会関係を全体として把握しようとする新体制国家の構想であった。

 ムッソリーニは、十九世紀を動かした二大思想である社会主義と民族主義を統合するのに成功したことはよく指摘されている。彼は確かに、社会正義への渇望としての社会主義や、民族の権利の主張としての民族主義が国民の意識の底流に共存する事実を理解したが、彼の思想は単なる国家的社会主義に尽きるものではない。彼は、当時新しい現象であった大衆社会の台頭がもたらす諸問題を把握し、ジェンティーレが提唱した国民的ジンテーゼをもって総合的な解決を試みたのである。それは、資本主義と社会主義を超越する「第三の道」であった。政治面で、従来の議会型民主主義が大衆の時代に機能し得ないことを理解し、国民の政治への直接参加を可能にする体制を模索した。経済政策において、資本主義体制の行き詰まりと共産主義型経済の非効率性を訴えて、秩序がある市場を目指して、自由経済体制の枠組みの中、国家の介入を認める混合経済体制を導入した。なお、社会政策において、労働対利益という従来の対立を乗り越え、労使関係を生産を目的とする共同活動として位置付けようとした。そして、国家の運営において国民の強い連帯の意識が不可欠な条件であると強調した。ムッソリーニの思想と政策をいかに評価するにせよ、彼が指摘した諸問題は、今の社会でも未解決のままに残っている。しかも、従来の政治勢力に対する国民の不信感が日増しに強くなり、連帯の意識が弱まり、貧富の差が拡大している今日、彼が提唱した「第三の道」は意外にも時を得てきた。

ページトップに戻る

じんぶん堂は、「人文書」の魅力を伝える
出版社と朝日新聞社の共同プロジェクトです。
「じんぶん堂」とは 加盟社一覧へ