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「ドイツ歴史家賞」受賞の泰斗による金字塔 『ドイツ史 1800-1866(上・下)』

記事:白水社

名著の誉れ高い「新しい古典」待望の邦訳! トーマス・ニッパーダイ著『ドイツ史 1800-1866 上・下』(白水社刊)は、ナポレオンからビスマルクまでを射程におさめ、政治から生活・労働・経済・宗教・教育・学問・文化まで、各分野の研究成果を綜合した圧巻の歴史書。
名著の誉れ高い「新しい古典」待望の邦訳! トーマス・ニッパーダイ著『ドイツ史 1800-1866 上・下』(白水社刊)は、ナポレオンからビスマルクまでを射程におさめ、政治から生活・労働・経済・宗教・教育・学問・文化まで、各分野の研究成果を綜合した圧巻の歴史書。

 トーマス・ニッパーダイは、1927年に、ケルン大学の労働法の教授で、戦後に西ドイツの労働裁判所長官となるハンス・カール・ニッパーダイの子として生まれた(※)。ゲッティンゲン大学、ケルン大学、ケンブリッジ大学で学んだ後、ケルン大学で初期ヘーゲルについての論文で博士学位を取得した。その後、ケルン大学で父親の同僚だったテーオドール・シーダーの勧めもあって哲学から歴史学に転じ、ゲッティンゲン大学に教授資格取得論文を提出した。

 教授資格取得論文「1918年以前のドイツ諸政党の組織」(Die Organisation der deutschen Parteien vor 1918)は、帝政期の自由主義政党に最大の力点を置きつつ、膨大な材料を用いながら政党組織の構造を解明した画期的な研究であり、ノルテによれば、伝統史学の立場に立つゲッティンゲン大学の審査員からは「社会学」的過ぎるとして芳しい評価を得られなかったようだが、1961年に「議会主義史・政党史叢書」の一冊として刊行された。訳者は、学生時代に飯田収治・中村幹雄・野田宜雄・望田幸男各氏の共著『ドイツ現代政治史──名望家政治から大衆民主主義へ』(ミネルヴァ書房、1966年)を通してこの本の存在を知り、初めてニッパーダイという歴史家と出逢ったのだが、その研究の緻密さと鮮やかな整理の仕方に感銘を受けたことを覚えている。

 ニッパーダイは、1963年にカールスルーエ工科大学の歴史学教授に就任し、1967年にベルリン自由大学に招聘された。その翌年に社会民主党に入党したが(後に1985年に離党)、ベルリン自由大学で吹き荒れた学生運動と対決する第一線に立ち、1969年には哲学部長に選出された。まもなく1971年にミュンヘン大学からの招聘を受け、1992年に亡くなるまで同大学で歴史学教授の職にあった。

ドイツ連邦諸邦の人口(単位:千人) トーマス・ニッパーダイ『ドイツ史 1800-1866(上)』(白水社)P.138より
ドイツ連邦諸邦の人口(単位:千人) トーマス・ニッパーダイ『ドイツ史 1800-1866(上)』(白水社)P.138より

 教授資格取得論文刊行後のニッパーダイは、まとまった研究書というよりも多くの論文を発表することを通して活動した。それらの論文の主なものは、① Reformation, Revolution, Utopie. Studien zum 16.Jahrhundert(G.ttingen 1975)、② Gesellschaft, Kultur, Theorie. Aufs.tze zur neueren Geschichte(G.ttingen 1976)、さらに前掲の ③ Nachdenken .ber die deutsche Geschichteという3冊の論文集に収録されている(さらに、近年、パウル・ノルテの編集による論文集 Kann Geschichte objektiv sein ? Hitorische Essays(M.nchen 2013)が刊行された)。それらの論文のなかでも、「フェアアイン」(アソシエーション、任意結社。我が国では「協会」と訳されることが多い。ニッパーダイは既に教授資格取得論文のなかでもこの組織形態に注目していた)が「近代社会」の重要な一面を代表していることを明快に論じた論文と、19世紀ドイツのナショナリズムにとって「国民的記念碑」が持つ意義を論じた論文が、特に良く知られている。

 しかし、おそらく最も大きなインパクトを与えた論文は、同年代のハンス=ウルリヒ・ヴェーラーが1973年に刊行した教科書的な歴史書 Das Deutsche Kaiserreich 1871─1918に対する書評論文だったと言っていいだろう。1960年代の半ば頃から西ドイツで台頭してきた「批判的・社会科学的」な歴史学(当初は「社会史」と称していたが、現在では「社会構造史」と訳されることが多い)は、政治史中心の伝統史学を批判して、社会的な状態、とりわけ支配関係の側からの政治史の再解釈に努めた。その際に、ナチス・ドイツとの連続性を重視する観点から1871─1918年のドイツ帝国が対象に採り上げられることが多かったのだが、ヴェーラーの歴史書がその代表的な例であり、周知のように我が国でも翻訳が刊行され(大野英二・肥前栄一訳『ドイツ帝国 1871─1918年』未来社、1983年)、大きな影響を及ぼした。ヴェーラーたちは、新しい歴史学の専門誌として季刊誌『歴史と社会』(Geschichte und Gesellschaft)を1975年に創刊したが、その第4号にニッパーダイが求めに応じて寄稿したのが、この書評論文である。この論文で、彼は様々な点でヴェーラーの歴史書を批判しているが、おそらく最も根本的な批判と言えるのは、ヴェーラーが「ドイツ帝国」(及びその支配構造)をナチス・ドイツの前史として位置づけて負の連続性の下で一面的に捉えているという批判であり、戦後民主主義の尺度を当てはめてドイツ帝国の歴史を断罪しようとするのは一種の「トライチュケの再来」(トライチュケの場合、断罪の最大の対象はオーストリアだったが)に他ならないとまで述べている。

 この書評論文のなかでは、ニッパーダイは、自らドイツ帝国史を書くつもりはないと述べているが、少なくとも結果的にはこの書評でのヴェーラーのドイツ帝国史との対決が彼のドイツ史三部作の出発点となったと考えていいだろう。実際、三部作の最後の巻の「終章」では、書評論文の幾つかの特徴的な論点が再び繰り返されていて、あたかも書評論文から始まる一つの輪が閉じられるかのような様相を呈している。

トーマス・ニッパーダイ『ドイツ史 1800-1866(上)』(白水社)目次より
トーマス・ニッパーダイ『ドイツ史 1800-1866(上)』(白水社)目次より

 三部作の最初の巻となった本書が一九八三年に刊行されるまでの経緯については、ノルテが詳しく紹介している。当初、ニッパーダイは、ウルシュタイン社のプロピレーエン・ドイツ史シリーズの十九世紀の巻を執筆することを申し出たのだが、ヴォルフガング・J・モンゼンが既に執筆者として予定されていたので、調整して、ニッパーダイは一八六六年までの部分を担当することになったようである。しかし、プロピレーエン・ドイツ史シリーズの出版企画がなかなか進展しなかったので、多少の紆余曲折を経て、結局はミュンヘンのC・H・ベック社から刊行された。

 本書の第一の特色は、前述の書評論文と同様に、歴史的な出来事の解釈や評価に際しては、その出来事が起こった当時の具体的な状況や制約や可能性を土台として考えるべきだという姿勢を基本としている点にある。それゆえ、「批判的」歴史学のようにもっぱらナチズムという結果に繋がっていく線や要素に目を向け、それらを一方的に強調しようとする姿勢は退けられる。しかし、やがてはナチズムにも繋がっていくネガティブな展開を無視しているわけではない。「悲劇」や「悲劇的」という本書に特徴的な表現が繰り返し用いられている理由の一部分は、そこから理解できるだろう。

 本書の第二の──おそらく歴史書としての最大の──特色は、政治的な出来事を中心に据える伝統的な叙述に留まらないで、かつてカール・ランプレヒトが(「出来事史」に対して)「状態史」と呼んだもの、第二次世界戦後の西ドイツでは「構造史」や「社会史」や「社会構造史」などと呼ばれたものに大きなスペースを割いていることである。ニッパーダイは政治史家として出発したと言っていいだろうが、前述のようにそもそも彼の教授資格所得論文は対象と方法の点で伝統的な政治史を大きく超えていた。「人口」から始まる第二章が、主として社会・経済に関する「状態史」・「構造史」の分野に該当する。歴史にとってのこの分野の重要性をはっきり認識していたという点では、ニッパーダイもヴェーラーたちと基本的に変わらなかった。

 第四章も一種の「状態史」だが、この章では、宗教・教育・学問・芸術といった広い意味での精神史・文化史が扱われており、第二章以上の分量を占めている。この点が本書の第三の特色であり、哲学から出発したニッパーダイという歴史家の、最も彼らしい部分と言えるかもしれない。宗教を含めた精神史・文化史を独自の領域として掘り下げて論じる点で、ニッパーダイは、おそらく彼と同様にカールスルーエ工科大学とミュンヘン大学で歴史学教授を務めたフランツ・シュナーベルの『19世紀ドイツ史』(Franz Schnabel, Deutsche Geschichte im 19. Jahrhundert)の影響を受けている。シュナーベルの歴史書は1929年から37年にかけて全四巻で刊行された未完の大著だが、「出来事史」よりも19世紀前半の宗教・技術・思想・学問などのテーマに重点を置いて論じているのを大きな特徴としていた。本書のなかでは「参考文献」のなかで短いコメントが記されているだけだが、ノルテが紹介しているところでは、ニッパーダイは出版社に対して本書を「フランツ・シュナーベルの未完の歴史書から50年を経て、再び幅広くドイツ近代の歴史を叙述したもの」、すなわちシュナーベルの歴史書の系譜を受け継ぐものと説明している。

 第四の目立った特色は、本書の独特な文体にある。訳者は、教授資格取得論文を読んだ後、時折雑誌や論文集でニッパーダイが書いたものを読んで、叙述のスタイルが大きく変化したことに驚いた記憶がある。論文やエッセイで彼が磨きをかけていった文体は、坂井榮八郎氏も指摘しておられるように、口頭で「語る」ような文体、それも、ノルテの表現を借りれば、「安楽椅子に座って」語りかけるような文体である。本書の文章を表面的に見た場合にも、「──」や「;」や代名詞が著しく多用されていること、短い文が繰り返しを含みながら積み上げられていくこと、過去形の文と現在形の文が入り混じっていることなどから、そのことが見て取れる。独特なリズムを持つ名文には違いないし、歴史書としての魅力の大きな部分を成しているのも確かだが、日本語に移し替えることを困難にする原因ともなっている。

トーマス・ニッパーダイ『ドイツ史 1800-1866(下)』(白水社)目次より
トーマス・ニッパーダイ『ドイツ史 1800-1866(下)』(白水社)目次より

 本書を刊行した後に、ニッパーダイは1866年から1918年までのドイツ史、すなわちドイツ帝国史の執筆に取り組み、1990年にその第一巻 Deutsche Geschichte 1866─1918. Arbeitswelt und Bürgergeistを、そして1992年に第二巻 Deutsche Geschichte 1866─1918. Machtstaat vor Demokratieを刊行した。本書の第二章と第四章に相当する部分が第一巻としてまとめられ、第二巻は政治史(政治の分野に関しても「出来事史」よりは「構造史」的な部分により大きな力が注がれているが)に充てられている。

 1866年以降の部分の執筆を開始した後の1988年に、ニッパーダイは研究休暇で滞在していたアメリカで腎臓癌の手術を受けた。当初は転移が発見されなかったが、結局肺と骨への転移があり、1990年に再度手術しなければならなかった。したがって、最後の巻は完全に癌との闘病生活のなかで執筆された。この巻の「あとがき」の日付は1991年10月3日となっているが、ニッパーダイは翌年の6月14日に亡くなった。生前に見本本は出来上がっていたものの、正式な出版は彼が亡くなった直後となった。

 ニッパーダイは本書で1984年にミュンスター市歴史家賞を受賞し、三部作の完成後は、3年ごとに授与されるドイツ歴史家賞(Preis des Historischen Kollegs)の栄誉に輝いた。授与の決定は生前のニッパーダイに伝えられていたが、正式な授与は没後となった。

 

(※)ニッパーダイについては、既に、彼の論文集 Nachdenken .ber die deutsche Geschichte. Essays(M.nchen 1986)を抄訳された坂井榮八郎氏が詳しく紹介しておられるので(『ドイツ史を考える』山川出版社、2008年)、ぜひそちらも読んでいただきたい。また、 Paul Nolte, Lebens Werk. Thomas Nipperdeys Deutsche Geschichte. Biographie eines Buches,(M.nchen 2018)も彼の歴史家としての生涯を詳述している。

【トーマス・ニッパーダイ『ドイツ史 1800-1866(上・下)』(白水社)訳者あとがきより】

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