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「空飛ぶ救急車」やトリアージが、世界史に初登場するのはいつ?

記事:白水社

フランソワ・ジェラール『アウステルリッツの戦い。1805年12月2日』(部分)
フランソワ・ジェラール『アウステルリッツの戦い。1805年12月2日』(部分)

『ナポレオン戦争 十八世紀の危機から世界大戦へ』(白水社)P.8-9より
『ナポレオン戦争 十八世紀の危機から世界大戦へ』(白水社)P.8-9より

啓蒙主義にひそむウイルス

 フランス戦争が生んだ惨事は、スペインの画家フランシスコ・ゴヤの心をかき乱すような飾り気のない版画のなかで描写されている。『戦争の惨禍』は、一八一〇年から一八二〇年に黒色の線で描かれ、スペインにおけるゲリラ戦の苦難と残忍さを、ありのままに保存している。レイプされる女性たち、絞首台からだらりとぶら下がる民間人の死体、鉄環絞首刑に処される司祭、斧で頭を真二つに割られる間際の兵士などである。ここには英雄も悪役もいない。銅版画のなかには、スペインのゲリラ兵とフランス人兵士を、加害者と犠牲者を見分けることができないものがある。暴力は無差別で意味のないものであり、そこに恐ろしさがあるのだ。誰もが、いつでも犠牲者になりえた(図を参照)。

 フランス戦争は、戦争には「規則」があるという十八世紀の観念を、ほとんど粉々に打ち砕いた。スイスの法学者エメール・ド・ヴァテルは、一七五八年の著作『諸国民の法』において、「正しい戦争」の定義や民間人の扱いや財産の扱いなど、戦時と平時の国際関係の行動規則(「適切な行動様式」)の概説を試みて大きな反響を呼んだが、このなかで「ヨーロッパの諸国民は、ほとんどいつも自制心と寛大さをもって戦争する」と書いている。このような考えは、啓蒙のコスモポリタニズム──すべての人民は、理性や一定の権利などの基本的な特性を共有しており、類似の自然法によって統制されるという考え──を下敷きにしている。しかしながら、フランス革命戦争とナポレオン戦争という総力戦が、容赦ない残忍さによってこれらの幻想を破壊したというだけではない。啓蒙の人道主義もまた、危険な矛盾を孕んでいたのである。この思想体系のなかには、有害なウイルスが潜んでいた。すなわち、戦争を制限する「規則」に従わない者はどうするのか。十八世紀の法学者は、綿密な作戦をともなう戦争を想定していたが、これとは異なる種類の戦闘を行う、反徒、ゲリラ兵、強盗、ヨーロッパ人でない「野蛮人」はどうするのか。敵国から、戦争の法を違反した、あるいは「不正な」戦争をしているとみなされた国はどうなるのか。ヴァテル自身は、彼らは「モンスター」であって、根絶して構わないと回答している。

図 1810年のゴヤの銅版画は、ナポレオン戦争期のぞっとするような命の浪費を描いている。犠牲者の国籍も、兵士なのか民間人なのかもはっきりしない。これこそが、戦争の惨禍の無差別な性格を最も力強く表している。[『ナポレオン戦争 十八世紀の危機から世界大戦へ』(白水社)P.108より]
図 1810年のゴヤの銅版画は、ナポレオン戦争期のぞっとするような命の浪費を描いている。犠牲者の国籍も、兵士なのか民間人なのかもはっきりしない。これこそが、戦争の惨禍の無差別な性格を最も力強く表している。[『ナポレオン戦争 十八世紀の危機から世界大戦へ』(白水社)P.108より]

フランス戦争では戦闘よりも病気で多くの兵士が落命

 もう一つの敵は病気だった。フランス戦争では、戦闘よりも病気によって多くの兵士が命を落とした。イギリスは半島戦争において、八千八百八十九人をフランスの攻撃で失ったのに対し、二万四千九百三十人を病気で失った。これは兵士たちが密集して野営し、兵舎に住み、露営したところならどこでも、ヨーロッパ全域で繰り返されている。二〇〇一年にヴィリニュスの集団墓地から発見された考古学的証拠は、一八一二年にモスクワから撤退するフランス部隊の三分の一近くが、チフスを運ぶシラミに苦しんでいたことを示唆している。別の恐怖に性病があった。地元の女性と恋愛関係にあった兵士たちが知られていなくもないが、ヨーロッパの軍人は暴力や下劣さで有名だった。つまり大部分の軍人が性的快楽を抑えられず、売春婦に頼ったのである。あるフランス人騎兵が述べるように、その結果、病院に「堕落した性交の犠牲者がうず高く積まれた」。

 戦闘を生き延びたものの捕らえられた兵士たちは、いつ、誰に戦争捕虜として捕まったかに応じて、様々な運命を経験した。フランス革命戦争の最初の数年間には、フランス軍が捕らえた大同盟軍の捕虜たちが町や要塞に収容されたが、毎日の点呼を受け、密かに脱走しないと誓った場合には、階級に応じた金額が支払われ、町中を自由に歩き回ることが許された。戦争捕虜と地元の女性との結婚は珍しいことではなく、多くの者は民間人のときに従事していた商売を続けた。恐怖政治期には、監禁されるなど状況が厳しくなったが、その後再び穏やかなものになった。この背景の一つには、実用的な理由があった。フランスの多くの地域社会は、無期限で捕虜を収監しておくだけの資源を持っていなかったのである。イギリスに捕らえられた捕虜は、(よく知られているように、エディンバラ城を含む)国の周縁部の城塞に収容された。戦争捕虜が監禁された環境は劣悪だったに違いない。一七九九年、オーストリアに九カ月間にわたって捕らえられたフランス人徴集兵は、「四十人がひと部屋に」閉じ込められ、新鮮な空気がなく、粗末な食事で、不潔な麦藁を積み上げて寝床を作っていたため、「病気にかかり、害虫に苦しんだ」という。彼は、地元の小作人たちの報復にさらされた。宗教行列を見ることを許されたときには、フランスの捕虜たちは唾を吐かれ、叩かれ、殴られている。この徴集兵は幸いなことに、捕虜交換のおかげで解放された。捕虜交換は、しばしば政治的な理由で起こった。敵が和平交渉をどう考えているのかについて探りをいれる手段として討議されたのである。

『ナポレオン戦争 十八世紀の危機から世界大戦へ』(白水社)P.154-155より
『ナポレオン戦争 十八世紀の危機から世界大戦へ』(白水社)P.154-155より

 戦争の最大の恐怖は、戦場で爆発した。フランス戦争期の軍隊では、新兵器の開発がほとんど見られなかったが(ただし、まったく成功しなかったものの、イギリス軍がロケット弾の実験を行っている)、彼らの殺傷兵器は十分な破壊力を持っていた。死傷者数は両陣営合わせて、アウステルリッツで二万四千人、イエナ=アウエルシュテットで六万人、アイラウで五万六千人、ワーテルローで四万六千人だった。最悪の殺戮はボロディノで、八万人が命を落とした(フランス陣営だけで三万五千人が負傷し、そのうち一万三千人がのちに死んだ)。これらは一日のうちに行われた戦いであって、第一次世界大戦に匹敵する規模の大虐殺である。一九一六年のソンムの戦いの初日にイギリスが出した死傷者は、五万八千人なのである。

 フランス戦争期には、マスケット銃に装塡し発砲するまで十二もの手順を踏まねばならなかったが、熟練の兵士は三分間で素早く四回発射することができた。フランス医療班の治療を受けた負傷者一覧によれば、一連の素早い射撃を浴びると、頭蓋から爪先まで人体のどの部位も無事では済まなかった。重騎兵の剣は兵士の帽子を切り裂いて、頭を二つに割ることができた。砲撃の衝撃はとても恐ろしく、経験豊富な軍医でさえ、いくつかの光景に取り乱すことがあった。例えば、砲弾が胸郭を突き抜けて砲兵が即座に殺されたり、砲弾によって将校の首がとび、頭部のない胴体が馬にまたがったままだったりした。

フランスの軍医ドミニク・ラレがトリアージを考案

 また、兵士たちの回顧録に、戦闘の大虐殺が記録されている。一八〇九年のアスペルン=エスリンクで、コワニェは隊列のそばを勢いよく通り抜ける砲弾によって足元から吹き飛ばされた。「私にはもう右腕の感覚がなかった。下を向くと、血まみれの肉片が出血する傷口に覆いかぶさっているのが見えた。まるで私の腕が打ち砕かれたかのようだった。実際に、私の方に丸ごと吹き飛んできたのは、哀れな仲間の遺体の一つだった」。その後、あらゆる戦場にこのような凄まじい死の光景、音、臭いがあったので、これらは経験した者たちの脳裏に焼きついた。あるフランス人兵士は、アイラウの戦いを振り返り、冬の戦場について次のように述べている。「いたるところで大量の血痕が雪を染め、人馬に踏み荒らされて黄色になった。騎兵が攻撃する場所、銃剣で武装した兵士が攻撃する場所、大砲を設置する場所は、死体と馬で覆われていた。どこを見渡しても、死体もしくは身体を引きずるようにして歩く哀れな人しか見当たらず、耳をつんざくような叫び声しか聞こえなかった」。膨大な数の負傷者にもかかわらず、軍医は可能な限り最善を尽くして治療にあたった。最も深い傷を負った者には切断手術の処置が施された。熟練の軍医は、わずか数分で手足を切断することができた。フランスの軍医ドミニク・ラレは、ボロディノのぞっとするような大量殺戮のあいだに、二百件の手術を行ったと言われている。実のところ、ラレは偉大な革新者であり、一七九四年に「空飛ぶ救急車」を発明している。戦場から後方の応急手当の場所まで運ぶことができない負傷者を助けるため、また運べる負傷者を避難させるために、特別に設計された担架のことである。彼は後に、負傷者を深刻度に応じて分類し、それぞれ異なるレベルの治療が割り当てられるような、負傷者に優先順位をつけるトリアージ・システムを初めて考案した。一七九六年に彼は自分の部下たちに、階級や国籍にかかわらず、まず最も重傷の患者から治療するように伝えた。彼の評判は大変高く、ウェリントンはワーテルローでラレの救急車が用いられていることに気づいたとき、帽子を取って、自分の将校の一人に向かって、「勇敢さと献身に敬意を表する。もはや私たちの時代のものではない」と述べたと言われる。

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