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「クレムリン―赤い城塞の歴史」書評 時代の栄光、凝縮された空間

評者: 原武史 / 朝⽇新聞掲載:2016年10月09日
クレムリン 赤い城塞の歴史 上 著者:キャサリン・メリデール 出版社:白水社 ジャンル:歴史・地理・民俗

ISBN: 9784560095041
発売⽇: 2016/08/28
サイズ: 20cm/255,36p

クレムリン―赤い城塞の歴史 [著]キャサリン・メリデール

 周りを2キロあまりの城壁で囲まれ、さまざまな時代の様式による宮殿や聖堂、教会、塔などが林立する空間。それがクレムリンである。決して広いとはいえない空間のなかに、江戸城の本丸や皇居の宮殿や京都御所の紫宸殿(ししんでん)や日光東照宮や伊勢神宮や歴代天皇陵や首相官邸や新国立劇場などに相当する建造物が所狭しと立ち並んでいると言えば、いかにこの空間が国家の凝縮された中心であり続けたかがわかるだろう。
 しかし、現在観光地となっているクレムリンは、決してずっと同じ景観を保ってきたわけではない。それどころか、火災や戦争、革命、内乱のたびに破壊と建設が繰り返され、多くの人々が犠牲となった。一見整然としたクレムリンの舞台裏には、おびただしい血痕がいまも付着しているはずなのだ。
 本書はクレムリンの歴史を、15世紀も21世紀も全く同じ密度で描き出す。まるでイワン3世とプーチンが同じ時代に生きているかのように、どちらも細部が具体的に描かれる。論文調のような堅苦しさはなく、訳文からも時代ごとに全く異なるクレムリンの光景がありありと浮かんでくる。この大著を一人の歴史家が書いていること自体、驚異というほかはない。
 なぜクレムリンに建造物が集まっているのか。確かにロシア革命は帝政時代の建造物を破壊したが、ロシア正教会の施設を一掃したわけではなかった。レーニンやスターリンは、社会主義の新たなイデオロギーを作り出しながら、クレムリンのもつ宗教性も利用した。ソ連が崩壊しても、レーニン廟(びょう)は取り払われなかった。クレムリンとは、ロシア帝国やソ連の栄光を象徴する「遺跡」が集積された空間にほかならないのだ。
 この点が皇居とは異なる。江戸城本丸はもはや石垣しか残っておらず、広大な森のなかに宮殿や御所などが点在するだけの皇居は、建築によって見る者を圧倒する空間ではない。そもそもクレムリンのように、誰でも入れる観光地にはなっておらず禁域が多くを占めている。「空虚な中心」と呼ばれることもあるように、クレムリンとは対照的な空間とすらいえる。似ているのはせいぜい、赤の広場と皇居前広場がそれぞれ隣接していることぐらいだろう。
 それはロシアほど、日本では専制君主や独裁者が現れず、近世や近代を通して強固なイデオロギーも必要としなかったことを暗示してはいないだろうか。本書を読み終えて痛感するのはこうした彼我の違いの大きさである。特定の空間を通した比較政治思想史の視座を与えているという点でも、本書から学ぶべき点は少なくない。
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 Catherine Merridale ロンドン大学歴史学教授。著書『Night of Stone』でハイネマン賞を受賞。邦訳書に『イワンの戦争』がある。