追悼:ブックデザイナー・平野甲賀さんが考えていたこと
記事:晶文社
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ブック・デザイン、この呼称はわりと近年になってから使われ、一般的に通用するようになってきた。いまでも装丁家と自称するひともいるし、ブックデザイナーとカタカナ表記にこだわるひともいる。まぁ、どうでもいい話で、横文字つまりカタカナのほうが上等だと思うひとは、そうすればいいのであって文句をつけるつもりはない、しかし、耳なれないブックマルシェなどと言われると、ついソワソワしてしまう。
装丁と言うときにも、装幀という文字を使うひともいる。幀という字は表具屋さんが絵なんぞを台紙に糊ばりするときに使う文字らしい。丁は、丁半の丁つまり偶数、紙を折れば偶数、それを束ねて、装わせることを生業とする装丁師。南伸坊さんに『装丁』(フレーベル館)という本があり、かれは「丁」を車夫馬丁の丁の字の意であると言うが、これとてあっぱれ仕事師だ。
コウガグロテスク[注:平野さんがデザインした描き文字フォント]を発表したころだから、ずいぶん以前のことになるが、MU-STARSのラッパー藤原大輔君とのトークショウで、ぼくの仕事はパンクなラッパーだと宣言したことがあった。つまりファンクなリズムに乗ってパンクにやる、それが流儀だよ、と。あたえられた命題を批判的に自己流のことばで表現する、これがラッパーの仕事だ。装丁すなわちラップだろ。
出版社から、これこれの本を出すことになりました、内容は……。ゲラが送られてくる。その著者のことを充分に承知していれば、テーマとタイトルを示されただけで仕上がりまで想像できるものだ。そういうときはゲラを読まずに即座に仕事にとりかかってしまう。そんなカンが頼りの危なっかしいことでいいのか、勿論いけない。とんだカン違いでしたではすまされない。が、それが案外おもしろい結果となることもある。直感と熟慮、いずれが優るか、まず手足を動かしてみよう。とはいえ、できるだけゲラには目をとおす。そこには、それ以上でも以下でもない情報がすでにあるというわけだ。目次項目を見て興味をひく頁をめくる。そこに書かれた物語に共感し、あるいは疑問をもち、これまで稿を書き進めた著者の顔をおもい浮かべたり、その編集者とのやりとりまで想像して、さんざん悩んで、散歩にでる。
カバーや表紙はときとしてメディアの役割をはたす。出版されたこの本が書店に並ぶ、同時期に出版されるあまたの書物にまじって、この本はどのような位置にランクされるのか、「書店で目立ってましたよ」と、担当編集者から声がかかる。これはたいへん嬉しいことだが、そのトーンというかニュアンスが問題だ。だいたい書店の一番いいとこに積まれ、店員のコメント付きの、売らんかなの本には、手を出しそびれる性分だし、書棚の片隅でひっそり光を放つような本を作りたいと常々おもっているわけだ。
ひと昔まえなら装丁やポスターの版下づくりは、まず写植を発注することから始まる。おおよそのイメージを思い描き、助手を写植屋に走らせる。版下の場面では、束見本の採寸。並製なら簡単、上製本はちょっと面倒、丸背のカーブやら折込具合やら、ちょっとした仕立て屋なみの想像力を要する。そして台紙づくり、銘柄はもうすっかり忘れたが厚手の白紙にロットリングなどを駆使してトンボを入れ、写植の裏にペーパーセメントを塗って準備する。これらは一応助手の仕事だったが、今ではこれらの手仕事のほとんどがPCに入ってしまった。つまり、僕の極小デザインスタジオでも合理化があったわけだ。
喫茶店で編集者と顔をあわせ、著者や関連本の話などを聞き出し、おおかたの方針や期限や稿料などをきめる。この段階でふくれあがったイメージは少しずつしぼんでゆくわけだが、ここには生身のコミュニケーションの、うざったい効用がまだあった。ところがこの十数年でガラりと変わった。机の上からは往年の文具は姿をけし、ペンだこもへこんできた。
(平野甲賀『きょうかたる きのうのこと』より)
※晶文社Twitterでは、現在「#平野甲賀の装丁」のハッシュタグで、平野さんの晶文社作品をアップしています。月曜と金曜に更新予定。→ @shobunsha