コロナ禍でますます注目を浴びるフーコー“最晩年”のプロジェクト〈性の歴史〉――仲正昌樹が読み解く全貌
記事:作品社
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フーコーの『性の歴史』は、彼の思想を集大成する最後の著作として知られている。ただ、西欧近代を特徴付ける、「知」と「権力」の結合を、具体的な制度に即して歴史的に論じた『狂気の歴史』『臨床医学の誕生』『監獄の誕生』に比べると、どこに焦点を当てているのか分かりにくい。
「人間」を中心とする近代的な「知の地平」がどのように構成されているか明らかにすることを試みた『言葉と物』のような抽象度が高い著作と比べても、フーコーが最終的に何を明らかにしようとしているか分かりにくい。そのためフーコーをめぐる様々な論議で頻繁に言及される割りには、「西欧の性(セクシュアリティ)の歴史」の分析を通じて、新しい倫理を探究した(らしい)著作、という以上の共通理解が形成されてこなかった。
『性の歴史』の全体としての分かりにくさの即物的な原因は、①四巻にも及ぶ大著であることと、②最も長大な第四巻が未完に終わり、2018年まで刊行されなかったことにある(邦訳が刊行されたのは昨年末)。無論、それだけではない。第一巻「知への意志」は、ヴィクトリア朝時代の前後に形成された、性科学的な言説の権力作用、第二巻「快楽の効用」は古典期ギリシアにおける性、第三巻「自己への配慮」はヘレニズム期のギリシアとローマにおける性、第四巻「肉の告白」は初期キリスト教における性、というように、個々の巻で扱われる対象はクリアである。
しかし、近代科学と結び付いた新しい「権力」形態が「性」の問題にどう介入したか、『臨床医学の誕生』や『監獄の誕生』、あるいは、「生政治」をめぐるコレージュ・ド・フランスの講義などでの問題関心とも連続する形で論じた第一巻と、「権力」や「統治」を前面に出すことなく、古代の都市空間に生きる「市民」(家長)たちが「性」に関してどのような理想像を持ち、自己を律しようとしたかを論じた、二・三巻の間には、時代と地域だけでなく、着眼点も分析手法も、同じ著者によるものとは思えないほど大きなギャップがある。
初期キリスト教の教父たちが、信者共同体を「性」に関してどのように司牧するかがテーマになっている四巻は、時代・地域の面では二・三巻と連続しているが、「自己」自身への配慮から、神を代理する「他者」を前にしての「告白」へと焦点がシフトしている。
フーコー研究者・ファンの多くは、フーコーを、「異常者(アブノーマル)」扱いされてきたマイノリティの権利を擁護する反権力の闘士と見ようとする。学校、職場、病院、警察、公衆衛生、家庭など、私たちの日常を規制する様々な制度に浸透し、「正常=規範性(ノーマリティ)」を生み出す西欧近代的・資本主義的な権力の作用に抗う戦略、多様な生を可能にする新しい「知」の使命を、彼のテクストに見出そうとする。
そのつもりで第一巻を読むと、フーコーは期待に応えてくれているように思える。単純に「性」に関するタブーを一方的に押し付けるのではなく、科学的言説という形で人間の“自然な性欲”への関心を広く喚起し、子供部屋や学校から始めて、自分たちの日常生活全般を性の面でコントロールしなければならないという意識、「正常性」感覚を生み出した、生権力の巧妙な働き方を暴き出したフーコーは流石だと感心する。
しかし、そこからの類推の下で古代を扱う二・三巻を読むと、「性」を媒介にしてポリスを統合し、均一化する、「生権力」の原型のようなものが登場しないので、肩透かしを食らったような気になる。それどころか、性を中心とする「節制」で、強い「自己」を鍛えあげることで、家を存続させ、主人としての徳を示そうとする市民的倫理を、特に批判を加えることなく描き出し、特権階層に属する成人男性と年少者の間の少年愛を美化するような筆致が目立つ。
四巻では、性の問題を梃子に信徒たちの魂を導く司牧権力の初期形態が描き出されているが、それがキリスト教の性道徳に対する原理的批判に繋がっているわけではない。生真面目でちゃんとした読解力があるフーコー・ファンであれば、どこで反転攻勢に出るのか、このままでは、西欧文明を肯定することにならないか、と焦るだろう。にもかかわらず、オーソドックスなフーコー解説書・論文では、『性の歴史』は、西欧を支配する性の倫理と「主体化」の様式をラディカルに解体する道筋を示している、という調子で要約される。それで余計に分からなくなる。
「週刊読書人」ホールで行った連続講義の記録をベースにした拙著では、フーコーを英雄に仕立てることなく、また、4つの巻の間に無理に戦略的な整合性を付けることなく、各巻ごとにフーコーが何に拘ったか、少なくとも私自身に納得がいくよう解説することを心掛けた。第一巻と第二巻の間に大きなギャップがあるのは、フーコーの思想が進化したというより、彼の中で素朴な関心が強まったからではないか、と思う。
「権力」がどのように「性」をめぐる科学的言説を利用したかという以前に、どうして「性」は西欧人のライフスタイル全般を規定する規範的な意味を持っているのか? 人々は何故「性」に拘るのか? 「性」を肉欲として侮蔑し、不可視化する一方で、「性」に関する「告白」を通して信者の生活を管理する、キリスト教の両義的態度はどのように生成してきたのか?
ストア派がキリスト教に影響を与えたことは従来から言われてきたが、それだけで説明できるわけではない。各巻でフーコーが取り上げている、性をめぐる哲学的・医学的言説に加え、「性の歴史」研究と並行して行われた、コレージュ・ド・フランスなどでの「真理」をめぐる講義も参照しながら、フーコーが試行錯誤の末、「性の真理」を明らかにすることの歴史的意義に照準を定めていく過程を再現することを試みた。
一番スリリングだったのは、アウグスティヌスの「リビドー」論において、近代の生政治や精神分析において再浮上する、「性の主体」の原型が形成される様子である。アウグスティヌスが二王国論的な歴史観と自由意志論を通して、キリスト教神学の枠を超え、西欧の哲学や倫理・世界観に強い影響を与え続けている。この二つと、「リビドー」を制御する「主体」というテーマが深く絡んでいるとすれば、正しいフーコー理解とはどういうものかという些末な問題と関係なく、知的関心を強く喚起される。