人間は創造的な存在なのか? AIと人間の心の本質を考える『〈こころ〉とアーティフィシャル・マインド』
記事:創元社
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「アーティフィシャル・マインド」とは、あまり聴き慣れない言葉かもしれません。「人工知能(アーティフィシャル・インテリジェンス)」なら、昨今様々な方面で話題になっていますから、耳にされた方も多いと思いますが、「インテリジェンス」ではなくて「マインド」、「アーティフィシャル・マインド」とは、いったい何のことなのでしょうか? そのまま直訳的に理解すれば、「人工的なこころ」というようなことになるでしょう。つまり知能だけではなく、「こころ」を持つコンピュータやロボットのことでしょうか? それはSFではお馴染みのテーマですが、本論ではそうしたことを問題にしたいわけではありません。
二十一世紀に生きている私たちは、膨大な情報を高速度で処理するテクノロジーのおかげで、ほんの二、三十年前まではそれこそSF小説や映画の中のお話だと思っていたことを、日常生活において経験するようになりました。例えば街の通りを歩いていても、電車やバスに乗り込んでも、今では子供や若者から老人まで、暇さえあればスマートフォンの画面をのぞき込んでは、指先や声によってそれを操作しているという風景があります。すでに見慣れてしまったような感じすらありますが、落ち着いて考えてみると、こんなことは人類史上、未曾有の光景です。しかも「操作」といっても、昔の機械のように特有のコマンドを習得する必要はありません。かなり自然な言葉で、文字や音声を通じて、人間と機械とが「対話」しているのです。言うまでもなく、こうした機械との容易なやり取りが可能になったからこそ、スマートフォンをはじめとする現代の携帯端末が、年齢を問わずここまで広く普及したわけです。
もちろん、そうやって機械と「対話」しているからといって、私たちのほとんどはその向こうに人間と同じような「こころ」が存在するなどとは思っていません。少なくとも頭では、そうは考えていないでしょう。とはいえ、私たちは日常的に機械に話しかけ、機械から話しかけられるという経験を通して、何となく機械にも「こころ」があるかのように感じてしまう瞬間が、まったくないとは言えないのではないでしょうか。こうした人工的存在と、それがあたかもこころを持つかのようにコミュニケーションすることによって、少なくとも私たち自身のこころには、何か大きな変化が起こりつつあるように思われます。
「アーティフィシャル・マインド」というのは、こうした問題を考える手がかりとなるように、試みに作ってみた言葉なのです。アーティフィシャルな存在、つまり人工知能やロボットに「こころ(マインド)」はあるのか?というのは、昔ながらのSF小説のテーマとなる哲学的な問いです。けれどもそうした空想上の物語において定番の主題であった、ロボットが人間に挑戦するとか、機械が人類に取って代わるといった想像は、現代の現実社会における私たちの経験の中で、次第に古めかしいものに感じられるようになってきたのではないか、とも思われます。
本書においては、人工的存在にこころはあるのか?といった直接的な問いよりも、むしろ、そもそも人工的な存在を私たちはどのように理解すればよいのか、今後もますます増えていくと思われるそうした存在と今後どう付き合っていけばいいのか、そしてまた、それらとの共存を通して人間自身のこころはどのように変化し、人間のこころのどのような側面が明らかになってくるのか、といった問いかけをしてみたいと思います。
といっても私自身は、人工知能やロボットの専門家ではなく芸術学者なので、AIや機械と芸術創造・芸術経験との関係を手掛かりにして、考察を始めたいと思います。
〔中略〕
「芸術」という日本語は近頃、一般にあまり好まれなくなり、その代わりに「アート」という言葉を多くの人が使うようになりました。日本語の「アート」は、「ファイン・アート(芸術)」の略称として使われているわけですが、本来「アート」という概念は、いわゆる「芸術」を超えたはるかに広い意味、「技術」や「技」「やり方」というような意味を持っています。芸術とはそうした技術一般の中の「美しい技術(ファイン・アート)」、言い換えれば何か他の目的に奉仕する手段としての技術ではなく、それ自体が目的であるような技術のことを言います。これがカントによる芸術の定義です。
一方、「アーティフィシャル」という英語には、自然のものではなく「人工の」という中立的な意味の他に、「無理がある」「わざとらしい」といったネガティヴな意味があります。人工知能(アーティフィシャル・インテリジェンス)における「アーティフィシャル」は、言うまでもなく中立的な意味です。一方、例えばan artificial smile(アーティフィシャルな笑い)と言ったら、「作り笑い」というような意味です。しかしながら、作った笑いがすべて「わざとらしい」わけではありません。役者は演技で笑うことができますが、優れた演技は作為でありながら、わざとらしくあってはなりません。それは自然の模倣、つまり「本当に笑っているように見える」必要がありますが、さらに言うなら、それ以上が望まれます。つまりおかしな言い方ですが、本物の自然よりも「自然」であるべきなのです。優れた役者は演技で「作り笑い」すらできますが、それは人が何かを誤魔化そうとして思わず見せる「作り笑い」よりも、ある意味もっと「作り笑い」らしくなければなりません。
このように芸術においては、自然と技術との間には単純な対立はありません。むしろ、互いが互いを反映しつつ、相互に作用し合うような関係がそこにあります。自然と技術とのインタラクションこそが、いわば芸術を駆動するエンジンなのです。このことから、機械と芸術との関係について改めて考えてみるなら、そもそも「AIにアートは可能か?」というような問いそのものが、自然vs.技術、芸術vs.機械といった対立や、そうした対立を自明とする先入観によって、大きく歪められた問題であることが分かります。ナイチンゲールの啼き声をそっくりに真似る少年がいるように、美空ひばりそっくりに歌ったり、レンブラントそっくりの絵を描く機械が存在することは、テクノロジーとしては驚くべき達成ですが、芸術的な観点から言うなら、特に驚くべきことではないのです。それは自然を冒涜するものでも、芸術にとって脅威となることでもありません。むしろ、そうした新たな技術的達成は、芸術表現の可能性を大きく広げる希望と考えるべきです。
重要なことは、「AIは人間の創造行為にとって脅威となる」というような固定観念から、早く自由になることです。そのためには、次のような問いを考えてみる必要もあるでしょう。すなわち、AIが描いた絵画を私たちがレンブラントによる芸術作品と見間違えるのは、実は私たちがこれまで「レンブラント」の中に観てきたものが、本当は「芸術」などでは少しもなくて、単なる「レンブラントらしさ」に過ぎなかったからではないか?という問いです。つまり私たちは、芸術と「芸術らしさ」とを混同してきたのではないか、ということです。「らしさ」の認識や構築、つまり事実の持つ複雑で膨大な特徴要素を正確に分析したり、その結果を用いて再構成する能力においては、言うまでもなく人間よりも機械の方がはるかに優れています。だから、そうした競争で私たちがAIに敗北するのは、まったく当たり前なのです。言ってみれば、AIが創造行為にとって脅威に感じられるとすれば、それは、私たち人間自身が創造などしておらず、AIと同じことしかしてこなかったからではないか、ということです。AIが人間に挑戦しているように感じるのは、実は私たち人間が自分自身を(能力の劣った)AIとして理解してきたからではないか、と問うべきなのです。
これがおそらく、「アーティフィシャル・マインド」という言葉が持ちうる、もう一つの意味です。それは、私たちが知らず知らずのうちに、自分のこころを「アーティフィシャル」なものとして理解するようになってしまったのではないか?ということです。けれども「芸術」とは、「芸術らしさ」の全体とイコールではなく、むしろその外にある何かです。それと同じように「こころ」とは、アーティフィシャルに実現可能なすべての機能の外部にある何ものかのことです。そしてこのことが、現代のテクノロジーが私たちに教えてくれる本質的な教訓なのだと思います。