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“自由”なはずのアート界にも存在する不均衡を超えて 『社会を変えた50人の女性アーティストたち』

記事:創元社

メアリー・カサット – Two Sisters [from Mary Cassatt Retrospective]
メアリー・カサット – Two Sisters [from Mary Cassatt Retrospective]

 大学院でアートマネジメントを勉強していた頃、コンテンポラリーダンスのテレビ放送を観ていたら、一緒に画面を眺めていた母が「何を言いたいのかわからんから、全然おもろないわ」とつぶやいた。私はとっさに「パッと見て全部わかる方がつまらんやろ」と反論した。この拒絶するような言葉を私は今でも恥じている。進学して勉強させてもらっているにもかかわらず、物心ついたころからずっとかかわっているアートとは一体何なのか、どういうところに惹きつけられるのかをうまく説明できずに、相手の感性を否定することしかできなかったからだ。

 アート(芸術)には、非生産的で役に立たず、お金ばかりかかるもの、限られた人間にしか理解できないものというイメージがつきまとう。アートの社会的な意義も十分に認められているとはいいがたく、芸術は経済的時間的に余裕のある人しか享受できない贅沢品で、そんなものに公金をつぎ込むべきでないという声も少なくない。有名アーティストの作品が法外な値段で取引される一方で、基本的にアーティストの社会的地位は不安定で、そうそう“食べてはいけない”職業とされている。そのアンバランスなステレオタイプに私自身も大なり小なり絡めとられていたのだろう。素晴らしいアート作品の数々に力をもらい、自分も制作に携わる立場でありながら、アートを学ぶことにどこか引け目も感じていた。

 本書『社会を変えた50人の女性アーティストたち』は、あの頃の燻りを未だに引きずっていた編集者の私にとっても、アートや文化芸術への理解を整理し、視野を広げ、励ましてくれる一書だった。なぜなら本書は女性アーティストの伝記集という形式でありながら、著者自身もひとりのアーティストとしてアートの多様性と社会的意義を語り直し、自由なはずの芸術の世界に潜んでいる格差や不均衡を浮かび上がらせているからだ。

アートのジャンルに果てはない

 「アート」「芸術」というとき、多くの人がまず想像するのは、おそらく絵画や彫刻、いわゆる“美術”だろう。実演芸術が好きな人は、音楽や演劇、ダンスなどを思い浮かべるかもしれない。さらに視野を広げれば、写真や映画、建築、文芸なども芸術の一分野である。

 新しい技術や媒体が発明され、既存のものを新たな視点でとらえる方法が発見されれば、それらを用いたアートが生まれる。そのため、メディア・アート、コンセプチュアル・アート、環境アート……など、聞いただけではどんなものか想像しにくいような名称のジャンルがつぎつぎと増え続けているし、ひとりのアーティストがジャンルを横断してさまざまな技法や表現方法で作品を発表することも珍しくはない。

 その多層性がアートを一見複雑なもののように感じさせるのかもしれないが、おそらくその根源にあるものはとてもシンプルで普遍的だ。それは、何かを創りたい、何かを表現したいという衝動である。心に思い描いたものを実際に表現する創造的な営みを、ヒトと他の生物とを分ける重要な特徴の一つとみなす人も少なくない。

 美術館に収蔵され、高値で売買されるものだけがアートではないことを証明するかのように、本書では幅広い表現方法が紹介されている。たとえばネイティヴアメリカンのナンペヨは、失われていたホピ族の陶芸技術を復活させ、独自のデザインも生み出して伝統工芸を進化させていった。ジャンヌ・パキャンがデザインした洋服は19世紀後半の女性たちを堅苦しいドレスから解放して活動的にさせ、シーピー・ピレネスはグラフィックデザイナー、アートディレクターとして自律した女性のための雑誌やデザインを生み出した。ウォルト・ディズニー・スタジオ出身のアニメーターであるメアリー・ブレアの作品は、多くのアニメーション作品やテーマパークの中で見られるものだ。いずれも「アート」「芸術作品」といったときに真っ先に思い浮かぶようなジャンルではないかもしれないが、それぞれの作家が探求心と創作意欲をほとばしらせて創り上げ、多くの人々の心を動かした立派なアートである。

 作品が美術館に収蔵されたり一定の価格で取引されたりするのは、その作品やアーティスト、ジャンルが正当に評価されたことを示す尺度の一つではあるし、またアーティストが生計を立てる上では重要なことでもあるが、作品そのものの本質的な価値は、数字や名声だけではかりきれないものなのである。

アートのもつ力

 アートを一言で説明するのが難しいのは、その影響力の幅広さにも由来しているのかもしれない。私の母がコンテンポラリーダンスを見て「何をいいたいのかわからないからつまらない」とこぼしたように、アートは一見何を意図しているのかわかりづらいものも少なくない(とはいえ、どんなアート作品にもメッセージを込めるべきという決まりはない)。しかし、アートは難解で人を寄せ付けないように見えて、時にどんな言葉を尽くしても伝えきれないような膨大な感情やエネルギーで脳と心を揺さぶってくることもある。

 アートが潜在的に持つ影響力の大きさは、往々にして権力者が文化芸術を厳しく規制し、あるいはプロパガンダのために積極的に利用しようとすることからもわかるだろう。本書の著者による「はじめに」も、大半がアートの力についての記述で占められている(以下、本文「はじめに」より引用)。

アートは私たちの文化を広め、私たちが普通であると考えていることをその通りと認めもするし、逆にそれに立ち向かいもします。
もし人々がアートの力をその手に取り戻したら何が起こるでしょう?  この本の女性たちの多くは、真実を語り、不正を告発し、見過ごされている人々に光を当てることに自らの才能を使ってきました。なぜなら、そこから新しい考えかたが広がり、世界がよい方向へと変わりはじめることができるからです。
アートはヒーローたちを讃え、力を与えるためにも使われてきました。
アートは真実を白日の下に晒し、私たちに共有された歴史を語ります。
そして、おそらく最も重要なことは、アートには人を癒やす力があるということです。[…]アートを使って、人間性を介して人と人とがつながり合える空間を生み出すこともできるのです。

 「美術」という言葉があるように、アートは常に「美」と結びつけられてきた。確かに芸術作品は美しく、私たちの五感を楽しませる側面もあるだろう。しかしアートは単に美しさだけで語りきれるものではない。私たちが目を背けている世間や自分の中にある醜い現実を突きつけてくることもあれば、「そもそも美とはなにか」を問いかけてくることもある。私たちを勇気づけ、寄り添ったかと思えば、革新をせまりもする。それでも(だからこそ?)私たちは芸術に惹きつけられ、きっと永遠にこの営みをやめはしないだろう。

自由なはずの世界にも偏見と不平等が存在する

 多くのアート作品は作者の感情や思考、世の中の事象をどう捉えたかなど、きわめて個人的な動機から生まれる。にもかかわらず、文化も時代も超えて人々の心を動かすことがある。そしてアートは往々にして既成概念に立ち向かい、常識に疑問をなげかけ、見慣れた風景に違和を感じさせる。それが、あたかもアートの世界はみな自由で、どんな偏見も垣根もないという勘違いを生み出してしまうのかもしれない。しかし人間の営みである以上、社会に存在する差別偏見はもれなくアート界にも存在する。それが本書のもう一つの、シリーズを通じた重要なテーマである。

 かつて女性は(アートのみならずほとんどの分野においてだが)正規の芸術教育を受けることができなかった。男性にとって女性はただ芸術作品のモチーフやインスピレーションの源であればよく、彼女たち自身の精神や、創作意欲や、表現力は完全に無視されていた。運よく才能を開花させたとしても、女性が描いたというだけで作品を拒否されたり、男性によって勝手に作品を解釈され、不当な評価を下されたりすることが当たり前のように横行していた(そして悲しいかな、今も横行している)。

 現在でもアート界を主導し価値観の基準を作る立場の人は圧倒的に男性が多い。彼らがどんなに平等主義であっても、あまりに長い間当然のこととして受け継がれ、ほとんど無意識のレベルで潜んでいる男性主体的な考え方から逃れることは容易ではない。そうしたジェンダー間の格差は、本書では各アーティストの紹介のはしばしに表れているだけではく、たとえばオークションにおけるアート作品の落札額や、公共美術館の女性作家作品の所蔵数、美術館の女性管理職の人数などで具体的に示されている。

 こうした理不尽な差別は、性別以外の理由でも起こっている。ヴェトナム戦争戦没者慰霊碑のデザインコンペで優勝したマヤ・リンがアジア系とわかるや、マスコミや政治家さえもが人種差別的な発言で彼女を批判した。黒人であるメアリー・エドモニア・ルイスは大学の同級生を殺害したという事実無根の容疑をかけられ、人種差別主義者の暴力に遭って退学に追い込まれている。またロイス・メイロウ・ジョーンズは、作品がギャラリーに受け入れられても黒人とわかると展示を拒否され、正体を隠し郵送で出品せざるをえなかった。作品に感動する来場者たちのなかに、彼らにまぎれてギャラリーに足を運んでいたロイスがその作者だと知るものは誰もいなかった。

マヤ・リン(建築家・彫刻家・デザイナー、1959-)
マヤ・リン(建築家・彫刻家・デザイナー、1959-)

ロイス・メイロウ・ジョーンズ(画家・デザイナー・教師、1905-1998)
ロイス・メイロウ・ジョーンズ(画家・デザイナー・教師、1905-1998)

 たかが女か男かという違いで、肌の色やルーツが違うだけで、自分を表現する方法を学ぶ権利も、必死で創り出した作品を自分の名前で発表する権利も認められない。作品の評価だとかアーティストとしての待遇だとか以前に、そもそもスタートラインにすら立たせてもらえない。ひとりの人間としての尊厳さえ守られないこともあるのだ。アートの世界は固定観念から自由で多様性が保たれているという思い込み、またアーティスト全員にふりかかる社会的立場の弱さが、これらの差別を見えにくいものにしている。しかし同じアーティストの間にも、格差は厳然と存在するのだ。

 本書に紹介されている女性アーティストたちは、これらの差別や困難と闘いながら道を切り拓いた人物である。しかし歴史の中にはもっと大勢の名もなき女性アーティストたちが存在したはずである。女性や異文化の者に立ちはだかる壁の大きさを知っているからこそ、50人の女性アーティストのなかには後進のための教育や支援活動に携わっている人も少なくない。

大切だからこそ向き合い続ける

 やはりアートを一言で説明することはできない。しかし、この本の編集を終えた今は、アートを簡単に説明できないことに対して、さほど卑下する必要はないと思えるようになった。私がとらえられているのは、どんなに作品を見ても、どんなに創っても、どんなに勉強しても「全部わかった」とは思えない、広大で奥深いものなのだから。そしてその言葉にできない何かに迫るために、今日も何かを創るのだから。

 しかしだからといって、自分が大切にしている営みを守るためには、自分や業界のありかたを客観的に見つめ、言葉や行動を尽くす努力を欠かしてはいけないのだとも感じている。どんなに既成概念や社会規範にとらわれないでいたいと思っていても、アーティストや鑑賞者自身は、現実社会から完全に切り離されることはできない。自分が携わっているもの(業界)の社会的な位置づけや、どんな問題を抱えどう解決すべきなのかを常に意識しておかないと、見過ごしていた悪い面ばかりが肥大化して自壊してしまったり、あるいは外的な要因で創作や受容の権利を奪われたりするかもしれない。もっと気楽にいきたいものだが、本当に居心地よく自由な環境を得るためには、もう少し闘う必要があるのだ。

(創元社編集局 小野紗也香)

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