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万博前史からたどる、激動の街の物語 『大阪万博の戦後史』

記事:創元社

焼け野原になった大阪城付近(橋爪紳也コレクション)
焼け野原になった大阪城付近(橋爪紳也コレクション)

大阪万博での鮮烈な記憶

 2025年の日本国際博覧会、いわゆる「2025年大阪・関西万博」の開催が決まり、官民挙げて準備の段階に入った。大阪には、1970年の「日本万国博覧会」(1970年大阪万博)、1990年の「国際花と緑の博覧会」(1990年花博)を契機として都市改造を果たし、国際化の進展を見たという成功体験がある。

 ふたたび熱気を取り戻すべく、かつての万博の再評価もはじまっている。

 本書は「1970年大阪万博」を中心に、戦後から高度経済成長期の大阪について、平易に紹介する読み物となることを念頭において執筆したものである。

 冒頭に、万博に関する個人的な思いを記しておきたい。

 私は1970年大阪万博の当時、小学4年生であった。

 会期中に18回ほど会場に出向き、ほぼすべてのパビリオンに入館した。パンフレットやスタンプ、バッジを集め、外国人ホステス(今風にいえばアテンダント)にサインをもらうのが楽しみであった。また、『ニャロメの万博びっくり案内』(実業之日本社)が、お気に入りのガイドブックであった。

 会場に出向くときは、阪急千里線の西口駅を利用するのが常であった。車窓からは、遠くガスタンクの向こうに松下館や自動車工業館、住友童話館などが見えてくる。その瞬間、どうしようもなく沸き起こった期待感は、今日にあっても心に鮮やかだ。

 会場には、巨大映像やマルチ映像、電子音楽、ロボットやコンピューターなど、近未来を予感させるテクノロジーがあふれていた。ユニークなデザインのパビリオン群の造形にも驚かされた。

 なかでも三菱未来館の迫力のある映像、日立グループ館のシミュレーター、自動車工業館の自動運転システム、手塚治虫がプロデュースしたフジパン・ロボット館、サンヨー館の「人間洗濯機」、虹の塔やリコー館のユニークな映像の演出などがお気に入りであった。

 空中ビュッフェ、ダイダラザウルスなどのアミューズメント施設も印象深い。「太陽の塔」を含むテーマ館には、3、4回ほど入った記憶がある。

 また世界各国の文化に触れることで多くを学んだ。

 宇宙開発を競い合って展示したソ連やアメリカなど大国の展示館だけではなく、文明の進歩がもたらすプラス面とマイナス面を考えさせてくれるスカンジナビア館など、メッセージ性の強い出展も印象に残る。

サンヨー館に展示された「ウルトラソニックバス」(橋爪紳也コレクション)
サンヨー館に展示された「ウルトラソニックバス」(橋爪紳也コレクション)

博覧会研究をライフワークに

 私は、研究者となるべく志をもつなかで、博覧会などのイベント空間に関する研究を、人生をかける主題とした。

 1970年万博の資料を陳列する「EXPO'70パビリオン」(2010年3月オープン)の展示を監修、またサラゴサ博(2008年、スペイン)やドバイ博(2020年、UAE)の日本政府出展の構想立案に参画、上海万博(2010年、中国)では大阪館のプロデューサーをつとめさせていただいた。

 1970年万博のレガシーのなかで、私が強い思い入れを抱いているのが、岡本太郎の「太陽の塔」である。

 私は節目ごとに、「太陽の塔」を文化的に、そして歴史的に評価することの重要性を強調してきた。

 20周年となる1990年には、特別な許可を得て荒れ果てた内部に入り、将来において国宝や重要文化財指定の対象となる「未来の文化財」であると論文に書いた。

 30周年となる2000年には公式記録映像の一般公開に協力、「太陽の塔」を世界遺産にする運動を起こすべきだと主張した。

「太陽の塔」は、大阪万博を経験した世代にとってはリアルな記憶のよりどころとして、また万博以降に生まれた世代には、あの頃の活気を物語る歴史的なアイコンとして愛されてきた。2018年に完了した耐震補強工事を経て、今後も大切にされることだろう。

 そしていよいよ50周年の節目が2020年に到来した。私は万博公園を重要文化的景観とし、あわせて「太陽の塔」が文化財となることを望んでいる。

EXPO'70のデザイン・システムとプロセス
EXPO'70のデザイン・システムとプロセス

戦後史としての万博の価値

 さて、1970年大阪万博が、世界の博覧会史にあってメルクマールとなる画期的な成功を収めた背景には、大阪にあって、それまでにもさまざまな博覧会を成功させた実績があったことも一因であるように思う。

 1903年、「第5回内国勧業博覧会」が今宮村・天王寺村界隈で開催された。435万人ほどの入場者を集め、明治期における国内最大のイベントとなった。

 内国博といいながら、参考館や貿易商社の特設館に諸外国の商品が陳列された。この博覧会を契機として、万国博覧会の日本開催に向けた機運が高まったことは特筆に値する。

 その後、天王寺公園では、1906年に「戦捷記念博覧会」、1915年に「第7回日本産業博覧会」、1918年に「大阪化学工業博覧会」が催されている。

 市域拡張を実施した1925年には、天王寺公園と大阪城を会場に「大大阪記念博覧会」が、また1926年には港区八幡町と天王寺公園で「電気大博覧会」が実施されている。

 戦後では、1948年に行われた「復興大博覧会」がユニークである。夕陽丘に建設されたパビリオンの一部と、出展されたモデル住宅を閉会後に売却、外囲いをはずすとそのままに復興新市街となるように計画されていた。

 さらに1951年の「講和記念婦人とこども大博覧会」、1970年万博の後にも、1983年の「大阪城博覧会」、1987年の「天王寺博覧会」と続く。1990年には「国際花と緑の博覧会」が鶴見緑地で開催された。

 博覧会の歩みと大阪の発展は同調する。

 殖産興業をめざした明治時代、都市化と工業化、電化を推進した大正時代、市街地の復興と経済成長が重要であった戦後、環境問題に関心が集まった平成以降というように、時代とともに博覧会の主題や展示内容は変遷した。

 本書が「1970年大阪万博」が開催された時代の気分を読み取り、その価値を次世代に伝える端緒となればと思う。

幻に終わった「紀元二千六百年記念日本万国博覧会」のポスター
幻に終わった「紀元二千六百年記念日本万国博覧会」のポスター

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