支持されるリーダーの条件とは 埴輪から現代社会を考える
記事:筑摩書房
記事:筑摩書房
日本の人々にもっとも愛されている古代の遺物といえば埴輪であろう。なかでも「踊る埴輪」は、小学生なら一度は描いたことがあるアイテムに違いない。おそらく「カワイイ~」とか言いながら……。
埴輪について、カワイイ以上のことを知ろうとする人は少ないだろう。けれども、知れば意外に奥深く、「為政者とは何か」など、現代社会を考えさせる材料ともなる。
埴輪は古墳に並べられた焼き物だ。三世紀から六世紀まで三五〇年間も作られ続けた。最初は古墳を邪霊から守る筒形の埴輪から始まり、続いて家や道具をかたどったものが加わった。おなじみの人や馬などの埴輪は、遅れて五世紀に出現した。
人物・動物埴輪は群像として発注され、王(有力豪族)の葬礼が終わった後に古墳に並べられた。大きな古墳には数十体の群像が置かれたが、そこには王が主役となった幾つもの場面が並んでいる。つまり、亡き王の治世の重要な場面を、絵巻物のように連ねていたのである。
例えば、王が神をまつる場面がある。華麗な衣装をまとった王が合掌をしている。それに巫女が対座し、杯に入った水を勧めている。となりに重臣がいる。神を降ろすために琴を弾く男もいる。壺が置かれ、そこから水を汲み分けて巫女に渡す女がいる。どうやら聖水を媒介とし、神意を聞いてマツリゴトの行方を定めようとしているらしい。水は農業の源泉と言えるもので、稲作の成功を願っているのだろう。
例えば、猪を狩る王がいる。矢入れ具を背負い、弓を引き絞り、犬をけしかけている。追い詰められた猪は牙をむき、たてがみを逆立てているが、矢が深々と突き刺さり、一筋の血が流れている。これは狩りの成否によって王の政治の正当性を神に占っている場面と考えられる。
甲冑を身にまとい、大刀に手を掛けてポーズを決める武人がいる。ヤマト王権から分配された最高級の甲冑が表されている。古墳時代の倭の国内は、前方後円墳という同じ形の墓を築く豪族連合体が結成されており、基本的に平和であった。だから、武威を示したこの埴輪は、王が朝鮮半島に赴いて軍事・対外活動を行った姿を顕彰したものと考えられる。当時の外交はヤマト王権から有力豪族に委任されており、地方豪族も朝鮮半島にたびたび赴いていた。王は戦うだけではなく外交交渉をまとめ、渡来人を招致し、先進文化を地元に呼び込んで産業を振興させた。対外活動は地域を富ませる営みでもあったのである。
こうしてみると埴輪は、亡き王が、神意をきいて正しくマツリゴトを行い、広範な活動によって地域に富をもたらした事績を墓に表示したものだったと言える。「我々の王」が安心安全と豊かさを共同体に保障した。そのメモリアルだったのである。
だとすると、埴輪を並べた巨大古墳も共同体の記念物であったと考えられよう。人々に期待され、共立された王の墓は、すなわち「我々のシンボル」でもあった。後の神社や寺院のように……。ムチ打たれ、嫌々造ったものではなかったのである。
このように、巨大古墳は社会に必要であり、社会を持続させるための装置だった。だから四百年近くにわたって、岩手県から鹿児島県に及ぶ広い範囲で造り続けられたのである。本格国家が成立する以前の古墳時代、王は宗教・産業・交易・軍事・警察などを統べる全人的な能力が求められ、人々の安寧を保障する役目を負うことで「王たりえた」のである。
文献の記録には古代にも伝染病が大流行し、あまたの「百姓」が死んだことが記されている。埴輪に見る王の祈りには、悪疫退散の営みも含まれていただろう。さて今日の為政者は、令和の感染症を克服し、古墳時代の王のごとく、民に支持され、顕彰される存在になりうるであろうか。刮目してこれを見、歴史にとどめなければならない。