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「娶」をどう読む? ジェンダーの視座から見る、男女がともに参加し指導者にもなる古代社会

古代の女性統治者/女帝はどのような存在だったのだろうか
古代の女性統治者/女帝はどのような存在だったのだろうか

誤植? 漢字の読みから考える古代社会

 「娶という字の読みがまちがっているのではないでしょうか?」という問い合わせメールに、「展示図録の誤植か!」とヒヤッとしたのは、昨年一〇月。私が展示代表を務め、本書の著者義江明子さんにも準備段階から参加していただいた国立歴史民俗博物館企画展示「性差の日本史」のオープン間もない頃であった。図録では「娶」に「ミアウ」とルビがふられているが、漢和辞典でも市販の『古事記』でも「メトル」になっているという。ある大手週刊誌に展示紹介を書いて下さった方からの問い合わせであった。

 実は、「娶」を「ミアウ」と読むべきという主張は、義江さんの独創的な見解である。展示でも、ユネスコ「世界の記憶」の一つである山上碑の碑文解説で紹介した。漢字を生み出した古代中国、あるいは中世以降の日本のような父権的社会の嫁取婚(夫方居住婚)であれば、男性を主語として「メトル」と読んでよいが、『古事記』の国生み神話のように、男女が互いに呼び合い見合って結婚する別居訪問婚/妻方居住婚だった古代日本の場合、男女を主語として「ミアウ」と読むべきである。また、このような関係を前提に作られる双系系譜では、子は(父母が)「娶いて生む」子と記される。「娶」というたった一文字の読みの背後に、古代社会の特質への深い理解と、それを実証するための長年にわたる系譜様式や古代双系社会の考察があり、それを説明すると大いに納得してくださった。

『女帝の古代王権史』(ちくま新書)書影
『女帝の古代王権史』(ちくま新書)書影

客体化されてきた女帝の姿を主体として描き直す

 本書は、このような著者の古代系譜様式論や王権研究、そしてそれらをジェンダーの視座からさらに掘り下げる長年の研究のエッセンスが詰まったものである。きわめて重厚な内容をもつことは、私のようなまったくの古代史の門外漢にもわかるのだが、一方で、それを実に読みやすく明快に解き明かしてくれる手腕には脱帽するほかない。

 おそらく、本書を手に取る読者の多くは、学校での歴史教育や多くの歴史書、テレビなどで再生産される邪馬台国の王・卑弥呼から奈良朝に至る古代の女性王、女帝のイメージを完膚なきまでにくつがえされるのではないか。

 著者は、二〇歳になったばかりの厩戸皇子(聖徳太子)が、三九歳で即位した働き盛りの推古に代わって「万機」を担うことなどありえないと断言し、群臣推戴による王位継承システムのなかで巧みに王権の自律性を高め、対外関係でも統率力を発揮する推古女帝を、説得力をもって描きだす。また、巫女としての卑弥呼、中大兄皇子の後景に押しやられる女帝皇極=斉明、草壁皇子の血筋をつなぐ中継ぎとしての女帝元明、元正など、客体化されてきた女性王や女帝の姿を、一つ一つ主体として描き直していく。

埴輪が物語る、男女がともに参加し指導者にもなる古代社会

 このような大胆な分析が説得力を持つのは、双系社会と長老原理に基づく古代社会への深い理解だけでなく、「徹底した史料批判」によって、史料自体が帯びる政治的性格を腑分けし実態をすくい上げていく手腕によるのだろう。そしてそれを鋭利に研ぎ澄ますのが、私たちの眼を蔽う近代の価値観を一つ一つ剥ぎ取っていくジェンダーの視座である。

 企画展示の会場では、甲塚古墳(栃木県下野市)出土の男女や馬、織機など九体の埴輪が来館者を迎え、その素朴な表情が来館者に喜ばれた。しかし、埴輪たちが物語るのは、本書が繰り返し強調する、男女がともに参加し指導者にもなる古代社会の姿である。ひょっとして、あの埴輪たちは、二〇二〇年の日本社会を逆に見返していたのだろうか。

 女帝中継ぎ説批判などの本書の主張には、異論もあるのだろう。それらが古代社会の特質やジェンダー理解をふまえた奥行きのある議論として展開されることを期待したい。

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