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戦争記憶の〈継承という断絶〉 福間良明著『戦後日本、記憶の力学』から考える

記事:作品社

『戦後日本、記憶の力学――「継承という断絶」と無難さの政治学』(作品社)
『戦後日本、記憶の力学――「継承という断絶」と無難さの政治学』(作品社)

「美しさ」という遮蔽物

 世界文化遺産に登録されている原爆ドームの一帯は、美しく整備されている。敷地には芝生が植えられており、周囲には小洒落た遊歩道や街灯、柳やツツジの街路樹がもうけられている。だが、そのことで覆い隠されているものはないのだろうか。

 いまでこそ原爆ドームは「核兵器廃絶と人類の平和を求める誓いのシンボル」と目されるが、戦後のひところまでは、それは巨大な廃墟のひとつでしかなかった。壁の煉瓦はたびたび落下し、敷地内には雑草が生い茂っていた。そもそも、原爆ドームは必ずしも後世に向けて保存すべきものとはみなされていなかった。『中国新聞』(1950年10月24日、夕刊)には、「どこか自分のアバタ面を売り物に街頭に立って物乞いする破廉恥にして卑屈な人間の心情」「薄気味わるい幽霊屋敷然としてたっている旧産業奨励館のドーム」といった記述もある。それだけに、ドームの撤去論には根強いものがあった。

1950年の原爆ドーム(南面)出典:中国新聞社編・発行『増補 ヒロシマの記録』1986年
1950年の原爆ドーム(南面)出典:中国新聞社編・発行『増補 ヒロシマの記録』1986年

2010年の原爆ドーム(南面)筆者撮影
2010年の原爆ドーム(南面)筆者撮影

 ちなみに、戦後初期の広島では、8月6日を期して花電車の運行や仮装行列などの「お祭り騒ぎ」が繰り広げられていた。今日の目には何とも奇妙で不謹慎にさえ見えるかもしれない。だが、それは当事者からすれば「あんなイヤなことをいまさら思い出そうより忘れようとしてのドンチャンさわぎ」「或意味の心理的な抵抗」(金井利博「廿世紀の怪談」1952年)であった。そこには直視を避けようとするほどの体験の重さがあった。ドーム撤去論も、こうした心情に根差していた。

「歓喜でもみくちゃ」と報じられた「8・6」イベント(『中国新聞』1947年8月7日)
「歓喜でもみくちゃ」と報じられた「8・6」イベント(『中国新聞』1947年8月7日)

 だが、今日の原爆ドームから、それらの情念はどれほど汲み取られているのだろうか。むしろ、周囲の当たり障りのない心地よさによって、往時の当事者の言葉にし難い情念が「上書き」されてはいないだろうか。

 原爆死没者慰霊碑(広島平和記念公園)の除幕がなされた1952年8月6日(および翌年同日)の平和記念式典では、慰霊碑の背後に横断幕が張られていた。その先に立ち並ぶバラックを隠すためである。言うまでもなく、そこには困窮に喘ぐ被爆者らが居住していた。これも、見た目の心地よさが何を覆い隠してしまうのかを如実に物語る。

原爆慰霊碑とバラックを遮る横断幕(1953年8月6日)出典:広島市編・発行『街と暮らしの50年』1996年
原爆慰霊碑とバラックを遮る横断幕(1953年8月6日)出典:広島市編・発行『街と暮らしの50年』1996年

継承という断絶

 それは何も戦後初期の広島に限るものではなく、今日の「戦争の語り」全般に見られるものではないだろうか。いまもなお 「記憶の継承」は多く叫ばれ、体験者への聞き取りは新聞・テレビでたびたび扱われる。戦争大作映画では、きまって「現代の若者」が体験者に深く共感するさまが美しく描かれる。だが、軍隊内部や占領地で暴力が生み出された構造、兵站の軽視が常態化した軍の組織病理などについては、ごく一部の専門研究者を除いて、十分に議論が尽くされているとは言い難い。心地よく当たり障りのない「継承」が語られる一方で、その背後にあるはずの史的背景や組織病理は見過ごされている。

 体験者へのインタビューについても、また同様のことが指摘できよう。戦争体験を有する存命者が少なくなるなか、「いまのうちに体験を聞き取っておかなくては」という思いが生じるのは当然のことだし、きわめて重要な営みではある。だが、体験者は現在のみならず、過去にも多くを語ってきた。それを活字化した記録も膨大な量にのぼる。それらは今日、どれほど顧みられているのだろうか。存命の体験者に話を聞くことが、ときに過去の膨大な資料を読み解く手間を省くことと、表裏一体になっては いないだろうか。そこにも、「継承」の欲望が忘却の累積を生み出す構図を見ることができよう。2020年に上梓した『戦後日本、記憶の力学』(作品社)で扱ったのは、まさにこうした「継承という断絶」であった。

「コロナ」と「忘却」

 このことは、「コロナ」を考えることとも無縁ではない。折しも、同書の校正を進めていた時期は、ちょうど第一波がピークを迎えていたころだった。

 感染抑止策や経済対策が小出しに実施されては、その後の状況悪化が繰り返されるさまは、兵力の逐次投入が失敗を招いたガダルカナル戦を思わせる。ワクチン接種の迅速化をめざし自治体にも負担を強いながら、供給の困難が露見したさまは、ロジスティクスを軽視したまま無謀な作戦を決行し、甚大な被害をもたらしたインパール作戦を連想させる。

 これらをめぐる病理と要因に果たしてどれほどの関心が払われているのか。東京オリンピック・パラリンピック(2021年)について「安全安心な大会の実現」「コロナに打ち勝った証し」といったフレーズを語るむきもあったが、その空疎さは「戦争」「継承」をめぐる心地よくも無難な語りとどれほどの相違があるだろうか。

 もっとも、そこで「犯人探し」に終始することも不毛であろう。「誰が悪かったのか」よりもむしろ、「何が非効率や不平等を生んだのか」「なぜ構造的にうまくいかなかったのか」という「失敗の本質」こそが問われなければならない。戦争をめぐる議論では、「加害責任」「戦争責任」が言われることもないではなかったが、往々にして「悪玉探し」が先に立ち、暴力が「悪」に見えない社会の構造そのものについては 、不問に付されてきた。コロナをめぐる議論が、それと同様のものになってしまうのであれば、また新たなパンデミックに対して、同じ失敗や不平等を繰り返すことになるのではないか。

 「コロナ」をめぐる議論は、東京五輪の余波も相まって、「戦争の語り」に通じる「無難さ」「心地よさ」に回収されるのか。それとも、その「失敗の本質」に向き合えるのか。「継承という断絶」は、戦争への向き合い方をめぐる問いであるのと同時に、パンデミックをめぐる問いでもある。

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