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酒の歴史に女性あり――酒瓶に秘められたウイスキーと女性たちの知られざる物語

記事:明石書店

フレッド・ミニック著『ウイスキー・ウーマン-バーボン、スコッチ、アイリッシュ・ウイスキーと女性たちの知られざる歴史』(明石書店)
フレッド・ミニック著『ウイスキー・ウーマン-バーボン、スコッチ、アイリッシュ・ウイスキーと女性たちの知られざる歴史』(明石書店)

ラフロイグの才女、ベシー・ウイリアムソン

 スコッチ・ウイスキーの6大産地のひとつ、アイラ島のラフロイグ蒸留所は、ピートと呼ばれる泥炭で香りづけした強烈な風味のウイスキーで知られる。「潮風の香り」あるいは「薬品臭」とも表現されるその個性的な風味は、好みがはっきりと分かれる。

 ラフロイグはウイスキー好きで知らない人はいないブランドである。だが、いまでは当たり前の、ブレンドされていないシングルモルトのウイスキーを楽しむという文化を世界に広めた立役者が、この蒸留所の女主人、ベシー・ウイリアムソンであったと知る人は多くない。

ラフロイグ蒸留所とベシー・ウィリアムソン。写真はLaphroaig所蔵。
ラフロイグ蒸留所とベシー・ウィリアムソン。写真はLaphroaig所蔵。

 ウイリアムソンが活躍したのは第二次世界大戦の前後。大学の夏季休暇中にアイラ島を訪れていた彼女は、偶然、ラフロイグ蒸留所が地元紙に掲載した速記者募集の広告を見て応募し、採用される。経営者に気に入られた彼女は、やがて蒸留所の経営を任されるまでになる。

 時代は第二次大戦の真っ最中。ウイリアムソンは蒸留所の経営に腐心するだけでなく、軍から酒と施設を守らねばならなかった。彼女は政府からの施設接収の要求をあしらいながら、軍への協力は惜しまず、巧みに蒸留所を守りぬいた。熟練の蒸留技師に召集がかかったときには、課税価格300万ポンドの貯蔵品の保管を一手に担う自社に欠かざる人材だと訴え、兵役免除を勝ち取って、蒸留所とその風味を守りぬいた。

 大戦後、ウイリアムソンはアイラ・ウイスキーのブランド確立に奔走する。ラフロイグは当時、ハイランド・クイーンやデュワーズ、ジョニーウォーカーといった有名ブランドに向けてブレンディング用の原液を出荷する、いわば下請けの蒸留所であった。だが彼女は、それら有名ブランドの人気に、自社のピートの香りが果たす重要な役割を理解していたようである。

 ウイリアムソンは、巧みに市場戦略に打ってでた。スコットランドのマスコミに向けアイラ島のウイスキーは人気で、「その需要には応えきれないほど」だと発信し、手に入りにくいブランドというイメージを確立した。そしてスコッチ・ウイスキー協会の宣伝大使としてアメリカ全土を旅し、スコッチのシングルモルトを売り込んだ。

 いまでこそ、ウイスキー愛好者のあいだでは、スコッチはシングルモルトが格上、ブレンドは棚の下へと追いやられているが、このシングルモルトの人気は、偶然、旅先で休暇の小遣い稼ぎを始めた、一人の女性の情熱に負っていたのである。

禁酒法時代に活躍した女性たち

 禁酒法時代のアメリカには、個性的な女性たちが出そろう。まず特筆すべきは、禁酒を訴えて手斧を携え、単身、酒場に殴り込みをかけたキャリー・ネイションである。信心深い彼女は、「飲酒を止めさせるためには手段を選ばなかった」ことで知られる。酒場の窓に石を投げつけ、扉を手斧で叩き壊し、店内では片っ端から酒瓶を空けて回った。警察が駆け付けたとき、ネイションの服からはビールが滴り落ちていたという。

右から2番目の女性がキャリー・ネイション。写真はKansas Historical Society所蔵。
右から2番目の女性がキャリー・ネイション。写真はKansas Historical Society所蔵。

 禁酒運動は一般に、女性たちが酒場の扉の外に立って並び、賛美歌を唱えて暗に抗議する、といった平和的なものであった。しかしネイションは、過激な実力行使に打って出た。彼女は何度、警察の世話になっても酒場の襲撃をやめなかった。評判は広まり、彼女が講演会を開くと、シンボルの手斧が手土産として飛ぶように売れた。

 ネイションの死後、禁酒運動の輪はさらに広まった。やがて第一次大戦下、敵国ドイツと国内酒造業者とが結びつけられると、州単位で導入されていた禁酒法は全国へ拡大し、連邦政府は1918年11月、「戦時禁酒法」を可決して、翌19年10月には恒常的な禁酒法「ヴォルステッド法案」が成立する。

 酒が違法になると、ケンタッキー州のウォーターフィル&フリージア蒸留会社の女主人メアリー・ダウリングは、アメリカでの事業を早々に畳み、国境を越えたメキシコの町シウダーファレスで合法的に稼業を再開した。ヨーロッパから質の高いスコッチ・ウイスキーを密輸したのは、密輸船のオーナーで「バハマの女王」ことガートルード・リスゴーであった。美貌で知られた彼女のもとには、数百通のラブレターとともに、金を貸してもらおうとしたり、息子を紹介しようとしたり、誕生日パーティーに招待したりする手紙が世界中から舞い込んだ。

酒の密輸の女王として知られたガートルード・リスゴー。写真はFlat Hammock Press所蔵。
酒の密輸の女王として知られたガートルード・リスゴー。写真はFlat Hammock Press所蔵。

 アメリカ国内では、女性の密輸人が全国に酒を送り届けた。紳士然と振る舞う男性の査察人は、女性密輸人の取り調べに躊躇したのである。ある新聞は、同乗者として「抜群の美女を連れていた場合、10ガロンでも運びきることができた」と書いている。末端での密売を担ったのも女性たちだった。器量の良い女性たちが少量のウイスキーを小瓶にいれて、スカートのなかやブラウスに忍ばせた。女性は男の密売人よりも5倍は売り上げたという。

 こうした女性たちの活躍で、禁酒法時代も酒飲みたちは飲んだくれていた。水面下の「飲酒運動」が度を越しはじめると、禁酒法の効果に疑念が生じ始める。禁酒法を廃案に追い込んだ一人、J・P・モルガンの社長夫人ポーリン・モートン・セービンらは、禁酒を続けるか飲酒を認めるか、その判断を国ではなく州や地方に委ねる、という対案を掲げ、1933年、禁酒法は廃止されるにいたる。

酒の歴史と女性たちのヴァイタリティ

 さて、コロナ・ウイルスの蔓延で、外出自粛が奨励されて、人びとは酒場から自宅へと河岸を変えた。「家飲み」や「宅飲み」という言葉が流行し、自宅でゆっくりと酒と向き合う時間を楽しんでいる人も少なくないだろう。だが、口元で傾けるその一杯の酒に、このような歴史があったと知る人はきっと少ないはずである。

 『ウイスキー・ウーマン』の著者で、ジャーナリストでウイスキー評論家のフレッド・ミニック氏は、古代から現代にいたる酒と女性たちの物語を詳らかにする。その一方で同書は、女性たちが貧しさに迫られて酒を密造し、子供や家族を養うために酒を密売していた事情も見逃さない。

 ただ、当の女性たちに貧しさを恨む素振りはない。あるボストンの女性は、密造を疑う査察官から、家庭で消費するには規模が大きすぎる25ガロンの蒸留器の使途を問いただされたとき、「うちの亭主はザルなのよ」と言ってのけた。本書に登場する女性たちには、みな時代や社会に飲み込まれずに生きるヴァイタリティがみなぎっている。

 ウイスキー・ウーマンたちのヴァイタリティは、現代のウイスキー業界にも生きている。グレンモーレンジ、ブッシュミルズ、デュワーズといった名だたる蒸留所では女性たちがマスター・ブレンダーとして活躍し、CEOになり経営の才能を発揮したり、「ウイスキー・フェスト」の開催に尽力したり、カクテルの専門家ミクソロジストとして新しい味を追求したりする人もいる。

ボウモア、マクレランズ、グレンギリー、オーヘントッシャンのマスター・ブレンダーを務めるレイチェル・バリー。写真はMorrison Bowmore Distillers所蔵。
ボウモア、マクレランズ、グレンギリー、オーヘントッシャンのマスター・ブレンダーを務めるレイチェル・バリー。写真はMorrison Bowmore Distillers所蔵。

ブッシュミルズ蒸留所のマスター・ブレンダー、ヘレン・マルホランド。写真はフレッド・ミニック氏撮影。
ブッシュミルズ蒸留所のマスター・ブレンダー、ヘレン・マルホランド。写真はフレッド・ミニック氏撮影。

 酒の歴史に登場する女性たちは、それぞれ独自の考えに立って時流を見据え、信念を貫いて生きた人たちであった。禁酒法を支持する者、それに反対する者、あるいは禁酒法で儲ける者、選ぶ道はさまざまであるが、その誰もが自らを信じ、力強く生きたがゆえに魅力をもつ。

 ウイスキーの琥珀色には、無数の物語が溶け込んでいる。『ウイスキー・ウーマン』を通して気になる銘柄に出会ったら、その酒とともに、改めてこの本の物語を味わい直してみるとよい。熟成した樽酒がもたらす豊かな余韻のなかに、ウイスキー・ウーマンたちの活躍する姿が映し出されることだろう。

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