新たな近代日本宗教史の展望・下 「近代」「日本」「宗教」の捉え返し
記事:春秋社
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『近代日本宗教史』全6巻(春秋社、2020年9月〜2021年7月)では、宗教教団こそが宗教史の主要なアクターというようにはなっていない、ということを述べてきた。これは少し前の時期までは自明とされてきた概念枠組みが揺らいできているという事態と関わりがある。
第1巻の末木文美士による「総論――近世から近代へ」では、冒頭からこの問題意識を提示している。「そもそも「近代日本宗教史」といっても、「近代」「日本」「宗教」のそれぞれの概念が今日疑問を呈されていて、それほど輪郭がはっきりしているわけではない」。
「近代」ということで言えば、今もまだ「近代」なのか。もはや「近代以後」の時代に入っているという考えもある、また、昨今、「近代仏教」研究が盛んだが、それは「近代」を価値基準としてそれを達成することを目標とするような自覚をもった時期以降の仏教を指す。そうした限定がついた仏教を考えるのか。「日本」ということで言えば、植民地や移民の宗教をどこまで扱うのか。沖縄や台湾、朝鮮との関わりをどこまで取り上げるのか。これらについては、意識しつつできるだけ狭い「近代」や狭い「日本」を脱することを心がけた。
だが、もっとも強く意識されたのは、「宗教」概念の問題である。そもそも「宗教」とは何かについて、疑いがついて回る。これは西洋語のreligionを翻訳して、明治維新前後に作られた用語であり、それをもって日本の宗教を捉えようとするとその妥当性について疑問符がついてしまうことが多いのだ。わかりやすい例は、神社神道は「祭祀」であるとし、教育勅語は「道徳」であるとして「宗教」とは異なるものとして捉える用語法が過去にあり、今も支持者が少なくないことである。これはまた、「神道とは何か」、また、神道や儒教は宗教なのか、といった問題にも通じている。
これについて、このシリーズのおおよその立場は、扱う対象としては宗教を広く捉え、宗教的なものの多様な様態にまで幅を広げて論じる。だが、何を「宗教」とするかという用語法の問題についてはとりあえず踏み込まないというものだ。これは前回(「新たな近代日本宗教史の展望・上」で)述べたように、宗教教団以外の宗教性に多くの関心を払うということと関わり合っている。
どうしてそのように広く宗教(宗教的なもの)を捉えるのか。その主な理由は3つある。1つは、キリスト教にならって宗教を定義する必要はなく、比較しながらの輪郭づけが好ましいからだ。実際、そのことが理解されて宗教概念は拡充されてきた。そして、そうした比較に基づく宗教の研究によって多様な宗教のあり方が理解されるようになってきた歴史がある。2つは、広く宗教的なものに関心を払うことによって、見えてくるものが多いということだ。宗教教団ではなく人間性のなかの宗教的なものの歴史を考えていくことで、見えてくるものが多い。
3つは、グローバルな比較の視座からの日本の文化の歴史の理解に役立つということだ。儒教や神道やアニミズムなどを宗教として捉えることは、世界の宗教文化の広がりのなかで東アジアの、そして日本の位置をつかみ直すのに役立つということだ。これは日本語を母語とし、日本の文化の影響を強く受けてきた者にとっては、戦略的に大いに意義あることだろう。
このシリーズをたどっていただけると、日本人の「無宗教」ということについて、考え直す手がかりが得られるだろう。戦前、国家や天皇にあれほどの宗教的態度をとってきた日本人が、どうして「無宗教」だという自覚をもつようになったのだろうか。そして、宗教教団が勢力の後退に見舞われているかに見える21世紀の日本で、それにしては宗教的なものへの関心がさまざまに喚起されていることをどのように考えればよいのだろうか。
かんたんに答えは出てこない。近代日本宗教史は複雑である。たとえば、第2巻の目次を見れば、大逆事件と幸徳秋水が3度は出てくる。幸徳秋水は社会主義の人であるが、なぜその幸徳が死刑にあった大逆事件について、今、振り返るのか、それが近代日本宗教史理解にとってどれほどまでに重要なのだろうか。また、大逆事件のような近代日本史の重要な出来事を捉え返す上で、なぜ宗教史という視点が有用なのだろうか。
これは本書で注目されている近代文化史の重要人物のなかに、必ずしも宗教者とは見做されない人たちが多く登場することにも関連する。西田幾多郎、柳田國男、折口信夫、和辻哲郎、田辺元、岡本太郎、吉本隆明、梅原猛、石牟礼道子などである。キリスト者や仏教者らとともに、こうした宗教者とは言えないような人物が、近代日本宗教史に重要な役割を担った存在として登場してくる。広い範囲の読者に、こうしたことの意味も私たち編者とともに考えていただきたい。