母性とはなにか 「普通」を問い直す 紀伊國屋書店員さんおすすめの本
記事:じんぶん堂企画室
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とある休日の昼下がり。私は針と糸、そして一枚の布と格闘していた。期待の眼差しを向ける娘の手には、うさぎの人形が握りしめられている。「お人形のお洋服作って!」というのが、彼女の要望である。
ことの発端は、保育園で使用するコップ用の袋をミシンで縫って作ったことだった。彼女が気に入るように、イヌのキャラクターに合わせて骨の形に切ったフェルトをいくつか縫い付けたのだが、その際、「大人はなんでも作れる」と思い込んでしまったらしい。彼女の気持ちを汲んで一度首を縦に振ったが最後、押し寄せる後悔の念が口から飛び出そうになるのを慌てて飲み込んでばかりいる。
家庭では母親という役割を自然と担うことになった私だが、娘の要望に応えようと四苦八苦する毎日。今回は、そんな日常的な興味から手に取った「母」をテーマとする本からご紹介したい。
『母恋い メディアと、村上春樹・東野圭吾にみる"母性"』(大野雅子、PHPエディターズ・グループ)は、比較文学を専門とする著者が、現代を生きる日本人にとっての「母」や「母性」はどのように形成されてきたのか、数々の文学作品やメディアを引き合いに出しながらその本質や歴史的経緯を探る一冊だ。
現代社会における「母」のイメージは、明治以降に構築されていったものだという。「家庭」という日本語は、明治に入ってから"home"の翻訳語として登場した言葉であり、明治期の近代女子教育が「良妻賢母」の理想を掲げたことが、女性の役割を家のなかにおける妻と母としての役割に限定する素地を作った。さらに、戦後、高度経済成長期における都市の中産階級の女性にとっては、良い母であることがほとんど唯一の存在証明となる。
また、「母性」という言葉も1900年代の最初の10年間に翻訳語として登場した歴史の浅い言葉であるにもかかわらず、「愛」という言葉と結合して「母性愛」として日本社会に流布していった近代社会のイデオロギーだという。
子どものために、裁縫をしたり、お弁当を作ったり。現代の母親の多くは、まさにそのイデオロギーとしての「母性」の只中に在るのだが、「すべてを包み込む優しさ、愛」――それは、対象者の心を温かくさせるものである一方、無償の愛、自己犠牲といった旧来のイメージが、「母」本人に重くのしかかってくるもののようにも思えてならない。ここで、「母」というものを考え直すきっかけとなった本を取り上げてみたい。
子どもがある程度のことは自分でできるようにまで大きくなった今、妊娠出産期の詳細な記憶は次第に薄れつつあるのだが、赤ちゃんと過ごす日々は私にとって新鮮で幸せで充足感に包まれたものだった。しかし、それと同じくらい、生命を守らなければならない重圧感と、言葉をしゃべることのない赤ちゃんと二人きりで閉ざされた空間にいることに孤独と不安を感じていたことを思い出す。赤ちゃんの発する喃語や泣き声を聞いては意思を汲み取ろうとする度に、赤ちゃんの意思は私の意思となり、それまで築き上げた自己はふらりと出て行ってしまい、そこにいる「私」は誰なのかわからなくなる。
これまであまり記録されてこなかった妊娠出産期の声をすくい上げ、現代社会における「母」の定義を解体しようと試みる本に、初めて出会った。『マザリング 現代の母なる場所』(中村佑子、集英社)。本書に収められる多数の声が、自身の経験と重なり交わりながら、重みを持って迫ってくる。
著者は、妊娠出産期の体験を言語化したいと考え、さまざまな事情を抱えた現代の母親たちへと取材をはじめる。しかし、次第に、その対象は、産む・産まないの差や、性差を超えて広がっていく。本書のタイトルにもなっている「マザリング」とは、性別を超えて、ケアが必要な存在を守り育てるもの、生得的に女性でないものや自然をも指す言葉だという。
取材を進めながら、著者は気が付くこととなる。よだれや排泄物が当たり前の家の中から一歩踏み出すと、圧倒的に管理され、暴力的なほどクリーンな都市と労働空間が広がっている。健康な人間が生きていくその場所は、病気の人や、介護が必要な人を許容しない場所であった。
他人の痛みに触れ、共感し、何とかしたい、と思う気持ち。誰もが持っているであろうその「母性」は、この世の中で生きていくうえで非常に大切なものだ。子どもの有無、性別、年齢にかかわらず、色々な人に著者の思いが届いて欲しい。
『マザリング』を読みすすめるうちに、見覚えのある名前に遭遇した。フェミニスト現象学の研究者、宮原優氏である。以前読んだ本の著者だったはず……と本棚から取り出したのは、『フェミニスト現象学入門 経験から「普通」を問い直す』(稲原美苗・川崎唯史・中澤瞳・宮原優、ナカニシヤ出版)。
本書は日本で初めてフェミニスト現象学をメインテーマとする本で、宮原氏は、第3・4章で妊娠や月経について書いている。妊娠や月経は、種の存続あるいは生理学的観点など、科学的に見ると「当たり前」の現象であるように思われるが、社会的な観点からは「日常生活からはずれていくこと」「日常から締め出されること」でもある、という記述にはっとさせられる。
フランスの哲学者シモーヌ・ド・ボーヴォワールの『第二の性』(1949)という著作のスピリットを受け継ぐフェミニスト現象学は、女性の体験する不自由さが社会の問題であることを指摘するフェミニズムの一種であると同時に、実際の経験を記述し、女性という主体とその状況との関わりを明らかにする現象学的な研究でもある。
本書は、宮原氏の論考をはじめ、女性として、トランスジェンダーとして、ゲイとして、ハーフとして、そして障害をもってこの世界に生きることについての論考が、14の章と6つのコラムに収められている。「現象学」と聞くと敷居が高そうに感じるが、具体的な経験をもとに書かれており非常に読みやすいので、ぜひ手に取っていただきたい。私たちが暮らすこの世の中における「普通」とは何であるのか、考える一助となれば幸いである。