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2018年、ノーベル文学賞はなぜ発表されなかったのか?

『ノーベル文学賞が消えた日:スウェーデンの#Metoo運動、女性たちの闘い』(平凡社刊)カバーより
『ノーベル文学賞が消えた日:スウェーデンの#Metoo運動、女性たちの闘い』(平凡社刊)カバーより

『ノーベル文学賞が消えた日』の概要

 本書の原題は“Klubben–En Undersökning”(ザ・クラブ──ある調査報道)といい、2019年11月に刊行された。著者のマティルダ・ヴォス・グスタヴソンはスウェーデン最大の日刊紙ダーゲンス・ニューヘーテルの文化部記者で、アメリカの映画界を揺るがした性犯罪事件、ワインスタイン事件の調査報道(2017年10月5日)に刺激され、スウェーデンの文化界における性犯罪の隠蔽について調査を始める。匿名または実名で証言してくれる被害女性が18人見つかり、2017年11月21日、《文化人》の性的暴行に関するスクープ記事を発表する。《文化人》が長らく文化の世界で影響力を行使できたのは、妻がスウェーデン・アカデミーの会員であり、夫婦共同で人気の文化サロン「フォーラム」を運営していたからであった。この記事は伝統ある機関スウェーデン・アカデミーを揺さぶり、女性事務局長サラ・ダニウスを筆頭とする改革派と、《文化人》と親交のあった男性会員率いる守旧派が対立。紛糾の結果、スウェーデン・アカデミーの活動に参加しない会員が続出し、2018年のノーベル文学賞の発表は中止に追い込まれた。

 この調査記事の発表当時、著者は30歳だった。それに対し《文化人》ことジャン゠クロード・アルノーは71歳、その妻カタリーナ・フロステンソンは64歳、スウェーデン・アカデミー会員の守旧派のリーダーであるホーラス・エングダールは69歳だった。本書はスウェーデンにおける#MeToo運動、性暴力に立ち上がる女性、古い体質の組織を改革しようという女性特権にしがみつく男性、閉鎖社会で振るわれるインフォーマルな権力についてのドキュメンタリーであると同時に、親世代の退廃ぶりをシビアに見つめる若い世代の物語としても読めるだろう。

スウェーデンの#MeToo運動

 この調査記事は#MeToo運動の申し子である。本書では以下のような説明がある。

 スウェーデンでは次々に別の流派が生まれた。最初に、ハッシュタグ#tystnadtagning(沈黙の撮影)のもとに400人の女優が集まり、仕事関係で受けたハラスメントや性的暴力を告発し、被害者に沈黙を強いる文化を非難した。
 次に、弁護士、教師、考古学者、建築労働者、麻薬中毒者や路上生活者たちが続いた。さらには女子生徒、警官、飲食店従業員たちも。売春経験者たちは#intedinhora(あんたの娼婦じゃない)を旗印にした。

 最も注目を集めたのはエンターテインメント界の動きだろう。2017年10月からテレビ・ラジオの司会者を名指しで告発する動きがあり、スウェーデン在住の訳者が知る限り3人の男性司会者が休職に追い込まれた(1人は起訴されたが判決は無罪。2人は捜査打ち切りで復職)。また、告発された男性(劇場支配人)が自殺したり、告発した女性が名誉棄損で訴えられたりするなどの諸事件も生じた。

 2017年11月8日には703人の女優が集まり、映画演劇界でセクハラや性的暴行に遭った経験をスヴェンスカ・ダーグブラッデト紙上で発表した。

 その11日後の11月19日、スウェーデンの13の劇場に女優たちが集まり、各自の経験を舞台上で朗読した。ストックホルムの「南劇場」には200人以上の女優が集まり、観客の中には当時の文化大臣クンケ(女性)やヴィクトリア王女、シルヴィア王妃もいた。

 本書の著者グスタヴソンの調査記事が発表されたのは、この3日後のことである。

調査記事のインパクト

 2017年11月21日、ダーゲンス・ニューヘーテル紙で公表されたグスタヴソンの調査記事の正確なタイトルは『18人の女性:私たちは《文化人》の性的暴行の被害に遭った』。見出しはこのように続く。

「スウェーデンの文化界の中心的人物からセクシャルハラスメントや性的暴行に遭ったと18人の女性が告発する。その男性はスウェーデン・アカデミーと密接な関係にあり、アカデミーがストックホルムやパリに所有するアパートが事件の舞台となった。この男性の行為は、1980年代から文化の世界では知られていた」

 小見出しには「彼は自分のことをスウェーデン・アカデミーの19番目の会員だと思っている」ともある。「スウェーデン・アカデミー」が20回登場するこの記事が出たあと、メディアの注目は当然、スウェーデン・アカデミーに向かった。18世紀に国王によって創設され、現代ではノーベル文学賞を選考する、秘密の多いこの組織に。そのニュースは世界を駆けめぐり、日本でもAFP通信が2017年11月25日に「ノーベル文学賞選考機関に激震、関係者にレイプ疑惑スウェーデン」という記事を公表している。

 訳者は、#MeToo運動の影響で各業界の女性たちが立ち上がり、問題行動のあった男性を告発するさまを「さすがはスウェーデン」と感心しながら眺めていた。そしてこの調査報道のあとは、ほぼ連日「クルトゥールプロフィーレン」(文化人)の名をニュース番組で聞くことになる。2018年4月28日、《文化人》はヴィクトリア王女のお尻まで触ったことがあるとの報道があった。この事件のあと王室はスウェーデン・アカデミーに対して「王女と彼を二人きりにしないよう」要望を出したという(この報道について王室はノーコメント)。その6日後の2018年5月4日、スウェーデン・アカデミーは2018年のノーベル文学賞の決定を延期すると発表した。訳者はフェイスブックに「この人物は将来、ノーベル文学賞をストップさせた男性として名を残すだろう」と投稿した。また、この日からスウェーデンの大手メディアが《文化人》ではなく「ジャン゠クロード・アルノー」と本名を使って報道するようになったことには驚かされた。スウェーデンでは、容疑者はもちろんのこと有罪判決が出たあとでも、犯罪者の本名を伏せて報道するのが普通だからだ。しかしこのルールは、その人物が社会にとって大きな関心事である場合には適用されない。公共放送スウェーデン・テレビは「ノーベル文学賞の決定の延期というのは世界的なニュースであり、その原因には公共の関心が集まっている」と氏名公表の理由を説明した。

《中略》

スウェーデン・アカデミーの内紛

 今回のスウェーデン・アカデミーの内紛の原因は、「女性蔑視」と見ることもできる。アカデミー守旧派の代表であるホーラス・エングダール(1999~2009年)とストゥーレ・アレン(1986~99年)はともにスウェーデン・アカデミー事務局長経験者だ(カッコ内は在職年)。エングダールはジャン゠クロード・アルノーと親交が深く、アレンは性的暴行を告発する手紙を無視した。2017年11月にアルノーの性的暴行を暴露する記事が公表され、社会からアカデミーとの関係が批判されても、それに真剣に対応しようとはしなかった。それどころかスウェーデン・アカデミーの体質を近代化しようとした女性事務局長サラ・ダニウスの手から権限を取り上げた。

 だがこれは国際的なニュースになり、またスウェーデン国内の女性から大きな怒りを買った。スウェーデン・アカデミーを追われたサラ・ダニウスが好んで着ていたボウタイ付きブラウスはアカデミーへの批判のシンボルとなり、大勢の女性がそれを着用した姿をSNSに投稿し、ダニウス支持を表明した。2018年4月19日の定例会の際にはアカデミー会館前に2000人以上の市民が集まり、「アカデミー会員は全員辞任しろ!」と抗議の声を上げた(この集会の呼びかけがあったため、実際の定例会は別の場所で行われた。本書参照)。

スウェーデン・アカデミーの改革

 アカデミー会員の定員は18名で終身制だが、本書にもあるようにシャスティン・エークマンは1989年に退会を表明して以来アカデミーの活動に参加していない。また、ロッタ・ロータスも「自分が適任だとは思えない」との理由で2015年からアカデミーの活動に参加していなかったことを、2017年11月26日に地元の新聞で表明した。このように以前から活動に不参加だった会員が2名いたうえに、2018年4月6日には3名が「今後の活動には参加しない」意思を表明した。4月12日には事務局長の職を追われたダニウスも退会の意思を表明し、フロステンソンが退会はしないものの任務には就かないことになった。さらに4月28日にはサラ・ストリッズベリも退会を表明した。その結果、スウェーデン・アカデミーの活動に参加できる会員の数は10人となった。

 スウェーデン・アカデミーの規約では「新規会員の選出には12名の会員が出席すること」が原則となっている。つまり活動に参加する会員が11人以下になることは組織の自滅を意味する。

 このような動きの中、2018年4月18日に国王カール16世グスタフが「スウェーデン・アカデミーの規約を変更し、会員の退会を可能にする」と声明を発表した。

 この規約は1976年にスウェーデン・アカデミーの設立者である国王グスタフ3世によって定められて以来、時流に合わせて解釈を変えるだけで、内容の変更はおこなわれなかった。したがって232年ぶりの規約変更となる。

 一方、法律家の中からは「スウェーデン・アカデミーの規約を変更する権限が現国王にあるのか? 1974年の制度改革以来、国王の権限は制限されているはずだが」といぶかる声も上がっていた。国王はスウェーデン・アカデミーの「高貴な後援者」とされているが、これは名誉職であり、実権を握っているわけではない。

 すなわち、ノーベル文学賞を決定するという重要な組織の規約が200年以上前のもので、終身制の会員によって解釈運用されており、それを変更する権限を誰が有しているのか現代では不明だったことになる。とはいえスウェーデン・アカデミーは「ロイヤル・アカデミーの一つ」(ほかにスウェーデン王立科学アカデミーなど)であること、組織改革の必要性が叫ばれていたことから、国王の介入は社会に受け入れられた。

 2018年5月2日、スウェーデン・アカデミーの規約に第11条aが追加され、「会員の自発的な退会の容認」および「2年以上、活動に不参加だった会員を退会したものとみなす」旨が記された。

 2018年4月6日、エクスプレッセン紙が「株式と不動産を合わせたスウェーデン・アカデミーの資産は15億クローナ(約200億円)近くある」ことを報じた。「これほどの資産を有する団体はめったにない。とりわけ文化の世界で」とある専門家は語る。しかし財団法人の一種なので資産には課税されず、年次会計報告を公表する義務もないという。

 スウェーデン・アカデミーは1791年(!)に官報を発行する権利を取得し、その利益をスウェーデン語辞典の発行資金に充てていた。2007年以後、官報の発行は政府の企業登録局の任務となり、そこからスウェーデン・アカデミーに対し対価が支払われている。その金額は2018年度は1300万クローナ(約1億7000万円)であったが、2019年度は800万クローナ(約1億400万円)と減少した。

 2018年9月14日、スウェーデン・アカデミーは規約の解釈を見直し、「会員は自分の利益よりもアカデミーの利益を優先すること」、「会員外の者でも定例会に参加できること」など組織改革に向けた文章を盛り込むと発表した。

 また2018年10月5日には、退会した作家ロータスの後任に、最高裁判所の判事を務めたエリック・E・ルーネソン(1960― )を迎えると発表した。ロータス以前の席次一番の会員はずっと法律家だったので、伝統に立ち返ると同時に、今後の同組織のコンプライアンス強化にもつながることが期待されている。

 また、2018年度分からスウェーデン・アカデミーの年次活動・会計報告が公表されるようになった。スウェーデン・アカデミーのホームページに掲載されている。

 スウェーデン・アカデミーが変革を受け入れたのは、本書にあるように、ノーベル文学賞の選考機関から外されるかもしれないという危機感からだろう。また、改革しなければ政府の介入を招くかもしれないと言われていた。

 #MeToo運動とグスタヴソンの調査報道が、200年以上の歴史と権威を持つ組織の体質を変え、近代的な組織体制に近づけたのは大きな功績である。

 訳者が残念だと思うのは、ホーラス・エングダールがアカデミー会員に居座っていることである。この人物の権力志向や攻撃性を目の当たりにした著者は、半ば呆れながらその様子を描写している。2018年5月22日、ダニウス、エスプマルク、エングルンドの3名が「エングダールが退会するのなら、自分たちはアカデミーに戻ってもよい」という声明を発表した。だがエングダールは「下手な駆け引き」と切り捨て、「会員は終身制なのだから私は辞めない。彼らも戻ってこられるはずだ」と反論した(結局、エスプマルクとエングルンドは復帰した)。

 人口1000万人のスウェーデンで作家として生活することは難しい。一方、スウェーデン・アカデミーの会員になれば毎月の報酬*のほかにさまざまな経済的恩恵が受けられる。それに社会的名声も。会員を辞めるということは、それらを手放すことである。サラ・ストリッズベリはまだ40代だったが退会した。その決断には悩みが多かったであろうと訳者は想像する。

*2019年10月10日のエクスプレッセンの報道によると、スウェーデン・アカデミーの会員基本報酬は月額6000クローナ(約八万円)から2019年7月以後は8000クローナ(約10万円)に増加した。このほかアカデミー内にはさまざまな委員会があり、委員になると別手当がつく。一般的な委員の手当は月額一万クローナ(約13万円)、ノーベル文学賞を選考するノーベル委員会議長の月額報酬は約1万5000クローナ(約20万円)であるが、一会員が複数の委員会の委員を兼ねることもできる。また、事務局長の月額報酬は12万4000クローナ(約160万円)である。

《中略》

原著と著者について

 原著『ザ・クラブ──ある調査報道』が2019年11月20日にスウェーデンで発売されるとたちまちベストセラーになった。書店組合が作るベストセラー・リストのノンフィクション部門では発売後半年間もベスト5入りしていた。また、書店員協会の2019年の「今年の本」に選ばれた。読者投稿サイトgoodreads.comでは2021年7月現在、6000人以上が投票し、平均評価は5点満点中4.34となっている。

 本書の魅力は、ノーベル文学賞中止の内幕を描くというドキュメンタリー要素のほかに人物の描写が素晴らしいことだろう。うつを経験し性格も内気な著者が、見知らぬ人たちに電話をかけて取材し、著名人には大胆な質問をぶつけながら記事を書いていくことに私の興味は尽きなかった。

 著者のマティルダ・ヴォス・グスタヴソンは1987年生まれ。本書刊行後に結婚し、現在は一児の母でもある。2017年の調査報道および本書の出版に対して、2018年にはスウェーデン・ジャーナリズム大賞のスクープ賞、およびスウェーデン雑誌出版協会のジャーナリスト賞、ならびに2020年には優れた文化記者に与えられるエクスプレッセン紙のビョーン・ニルソン賞を受賞している。

(『ノーベル文学賞が消えた日』「訳者あとがき」の一部を抜粋)

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