かつての東京の書店の面影に、台湾で再会。書店員が“読書好き”に届ける「偶然の出会い」:誠品生活日本橋
記事:じんぶん堂企画室
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東京メトロ日本橋駅と三越前駅をつなぐ中央通りにある複合商業施設「コレド室町テラス」の2階に「誠品生活日本橋」はある。台湾で暮らしと文化発信の拠点として人気のある誠品生活が2019年、初めて中華圏以外に出店して話題になった。
店頭には、台湾のデジタル担当大臣を務めるオードリー・タン氏の著書や、台湾カルチャーを伝える雑誌と書籍、旅行や食のガイドが並ぶ。誠品生活日本橋は「読書好きのための書店」の棚づくりを心がけており、例えば資格試験の本などは置いていない。
「誠品生活日本橋」をフランチャイズとして運営する、有隣堂(本社・横浜市)の社員である神谷康宏さんは、同店の書店ゾーン「誠品書店」でアートと人文書コーナーを担当。オープン前に台湾の誠品生活を視察し、多くのお客さんで賑わう様子を肌で感じたという。
「今は閉店した創業店舗の誠品書店敦南店と、台北の真ん中にある一番大きな誠品書店信義店、空港の近くにある誠品生活松山店。どこも本当にお客さんがいっぱい入ってました。まるで日本のバブルの頃のようでした」と話す。
神谷さんには、店舗ごとに担当者の裁量が感じられる棚作りも、誠品書店の魅力と映った。
「例えば、本の陳列の仕方。日本の書店では文芸作品は、多くの場合“あいうえお順”で並んでますよね。もちろん台湾の誠品書店も棚によってそういうルールがあります。だけど比較的ジャンル担当者による自由度が高い。 店舗ごとに並べている内容や並べ方が違う。そうすることで、棚に見えているものより実は在庫があるんじゃないかと思わせる、そんな本屋でした」
誠品生活日本橋では、海外文学のほか、みすず書房や岩波文庫の本が売れている。神谷さんは、日本での棚づくりについて「ベストセラーはもちろんですが、お客様が一般の書店で目に留めることの少ない書籍を、あえて集めています」と語った。
神谷さんは、小さい頃から活字の本に親しんできた。学級文庫に並んだ本は文学から自然科学まで手当たり次第に手にとった。親は本だけは子どもが「欲しい」と言ったものを何でも買ってくれたという。小学校2、3年生の頃は、親戚が買ってくれた作家・辻邦生さんの小説『ユリアと魔法の都』のサイン本をくり返し読んだ。
「辻邦生さんがどんな人か、サイン本に価値があるか、当時はわからなかったんですけど、作家の署名があることで、子どもなりに『特別なものだな』と感じるものがありました。その本は大事にしていましたね」
中学時代は、学校の入り口近くにあった書店に通い、高校に入ると受験対策をきっかけに小林秀雄や中村光夫、平野謙など、文芸批評を多く読むようになった。読書の傾向が少し変わったのは、大学に入ってからだ。
「当時、1980年代のニューアカブームが始まった時代だったんです。浅田彰とか中沢新一がスターで、『朝日ジャーナル』で筑紫哲也さんが編集長になって。東京のアートや人文社会のトピックが、どんどん目に入ってくる状況で、大学の生協でそういったものを探しました。これをきっかけに、ポストモダンの思想書なども読むようになりました」
そんな神谷さんは、大学時代から東京新聞で嘱託記者として勤務し、後にフリーライターとして独立した。雑誌の創刊ブームの中、書店員になったのは、同じくフリーライターだった当時のパートナーとの“じゃんけん”に負け、サラリーマンをやることになったからだと教えてくれた。バブル景気の余韻さめやらぬ1991年、神谷さんは青山ブックセンターの六本木店に配属された。
「日曜日に朝日新聞の求人欄を開いたところ、たまたま青山ブックセンターの求人募集があったんです。25、6歳だったと思います。いま『文喫』の場所にあった六本木のお店は120坪くらいでしたけど、1日の売上が当時500万ぐらい。朝200冊ぐらい平台に積んだ本が、翌朝の7時半に出勤するともう数冊しか残っていない。びっくりするほど本が売れました」
半年後、新たに出店する新宿ルミネ2の店舗に異動し、初めて文芸や人文、アートの選書を担当。その後は副店長として現在の青山本店をオープンさせるなど、1990年代の青山ブックセンターを経験した。2000年代にブックファーストに転職し、当時の渋谷店などを経て、青山ブックセンターが撤退した後の新宿ルミネ1.2への出店を担当した。
その後、出版流通に興味が湧いて、取次の太洋社(2016年に倒産)に転職したが、新規事業や総務・人事部長などを経て、ふたたび書店の世界に戻ってきた。
「結局、書店員しかできないなと思って。太洋社を辞めて、海外文具メーカーの書店営業をした後、フタバ図書(本社・広島市)に入社しました。福岡や広島の店舗の店長とかスーパーバイザーとかいろいろやりまして、2019年の2月に東京に戻ってきて有隣堂に入りました。まぁ“流れの書店員”ですね(笑)」
有隣堂に入社後、誠品生活日本橋の開店準備担当になった神谷さん。研修で訪れた台湾の誠品書店には、日本のベストセラー小説や漫画、アート系の写真集などが多数翻訳されて並んでいた。多くの人で賑わう誠品書店の棚は、神谷さんにとって「かつての青山ブックセンターや、往年の池袋リブロを彷彿とさせるつくり」に感じられたという。
21世紀の台湾で思いがけず再会した、書店員としての自身の原点。そのイメージを頭に描きながら、フランチャイズとして「きちんと誠品書店をやる」ことを目指したという。
実は神谷さんは、青山ブックセンターに入社したばかりの頃に、誠品書店の創業者である故・呉清友前会長が六本木店に来ていたことを覚えているそうだ。
「眼鏡をかけた背の高い台湾の方が、当時の青山ブックセンターの役員と、夜中に通路で立ち話をしていらっしゃいました。会長は31年前に台北で誠品書店を始められたんですが、当時、日本の書店もいろいろ見て回っていらっしゃったんですね」
書店員として多くの本と出会ってきた神谷さんに、人生を変えた一冊を尋ねてみた。すると、ルーマニアの宗教学者・作家のミルチャ・エリアーデの作品『ムントゥリャサ通りで』を教えてくれた。現実世界と神話世界の交錯や、現世から彼岸の世界へ直接達するための努力など、独特のモチーフが散りばめられた幻想小説だ。
大学への受験勉強に嫌気が差したとき、書店でこの本に出会ったという。「中学生の頃読んだヘルマン・ヘッセの『クヌルプ』以来の衝撃を受けました。“此岸”にいながら“彼岸”を想像し、向こう岸から、今生きているこちら側の世界を眺めるような物の見方に、深く魅かれるようになりました」と語る。
小説では、社会主義政権下のルーマニア、ブカレストの中学校の校長だった老人が、ある政府高官のところに「昔、あなたを教えた」とやってくる。政府高官はその男を覚えていなかったが、校長は「どこかで行き違いがあるに違いない」と話し帰っていった。この校長が何かを探ろうとしてるんじゃないか……。そんな疑惑から政府に捕らえられた校長は尋問を受けることにーー。
「いろんな尋問者たちが登場するんですけど、老人は全然関係ない話を始めるんですよ。“枠物語”というんですかね。小説の中で老人によっていろんな物語が語られるんです。その一つひとつの話が、今ある目の前のここから別の世界に人間が行ってしまう秘密を隠しているストーリーで、本当に面白いのでおすすめです。ひとところに長くいられない僕のような性分の人に合った本だと思います」
いま向き合いたい人文書は、哲学者でアナーキストの長崎大学准教授・森元斎さんの『もう革命しかないもんね』(晶文社)をあげた。この本では、不動産屋を介さない賃貸、家のDIY、畑づくりや食料の確保、料理、お金、子育てと教育……など、福岡の里山に移住した森さんが実践した生活と哲学が描かれる。
神谷さんによると、この本は「普通の良い暮らし」幻想や、既存の社会のフレームにとらわれず、自ら人生を豊かに生きる選択肢を教えてくれるという。
「日本で普通に生きるのは、良い大学に入って、良い会社に勤めて、結婚して家を買って子ども作って......みたいに思ってる人は多いと思うんですけど、それって結構不自由だったりするし、実際誰もが目指せる状況でもない。だけど世の中を住みやすくしていくことは、それ以外の道をたどってもできるんじゃないのか?」
「世の中を変えようと思ったら『選挙に行きましょう』って、最近特に言われるけれど、日本の民主主義のフレームの中にいなくても、人生を変える方法はあるんじゃないの? それは意外と身近ですぐできて、豊かな生を生きる方法じゃないの? そうした人々が増えれば、世の中は変わっていくんじゃないかな、と思いました。いちおう僕は選挙には必ず行きますけど(笑)」
長く本屋を見つめてきた神谷さんは、今の書店をめぐる状況について「書店員ってつぶしが効かない商売ですよね。とくに人文書や社会科学書をちゃんと売りたいと思う人には、そういう売り場が少なくなった今の書店の現場は難しい状況だと思います」と口にする。「それでも、普通の本屋さんにあまり置いてない本をやっぱり売らないと、僕は面白くない」と続けた。
「いまはそういう書籍の読者も、通販で買うのがあたりまえになっている。僕が子どもの頃、通学路にあった書店や、社会に出た頃に通った東京の書店には、気の利いた本と偶然の出会いがあった。台湾の誠品書店もそういう店でした」
「偶然の出会いを求めない人生って、さびしいなあと思うんです。いきあたりばったりで失敗することも多いんですけど(笑)」
“流れの書店員”は、本屋の棚づくりを通じて、自らも偶然の出会いを味わい、楽しむ人だった。